海福院(かいふくいん)は、JR嵯峨野線 花園駅の北にある臨済宗 大本山 妙心寺東海派の塔頭
妙心寺境内の中央部東北寄りにあり、養徳院の西隣、雑華院の北隣にある
安芸広島藩藩主 福島正則が、建立した福島家の菩提寺
<庫裏>
方丈・書院として使われている
塔頭 韶陽院の庫裏(1598年(皇紀2258)慶長3年の建立)を現在の地に移築し、増改築された
切妻造、虹梁大瓶束に湾曲した海老虹梁、本瓦葺
1間の広縁があり、桃山時代の禅宗寺院の庫裏の特徴がある
庭園に面して4部屋ある
8畳間の室中の奥に6畳の仏間がある
室中西の6畳の「蘆雁の間」には、岸岱(がんたい)により蘆(あし)と雁(がん)が襖に描かれている
襖をあけると「押入仕込茶室」が隠されてある
創建当時の本堂は、
1616年(皇紀2276)元和2年に、福島正則が建立
1811年(皇紀2471)文化8年に、等持院の方丈へ移築される
<押入仕込茶室>
本堂の「蘆雁の間」の襖の奥に隠されてある茶室
押入れの中、左端に丸炉が切ってあり、点茶や水屋などお茶の道具が仕込まれており、
襖を開ければ茶室としても使えるようになっている
妙心寺では、茶道はたしなむ程度のもので、嗜好としては禁止されていたため
茶室の中心に、面皮柱(めんかわばしら)があり、南寄り(庭側)に間口1間の空間が作られている
左手手前にさらに面皮柱1本がある
格子窓が開き、障子が掛けられている
上方に上下二重の袋棚、その下に釣竹の一重の棚がしつらえてある
下の板敷に36cmの丸炉を切り、茶釜が据えられる
茶釜が置かれている炉は、四角ではなく丸い形で、京都でも数ヶ所しかない珍しいもの
北寄りには、袋棚と、その下に板戸の引き戸があり、背面からの出し入れできる配膳棚になっている
北の壁には、臨済宗中興の祖 白隠慧鶴(はくいんえかく)愛用の茶釜 遠羅天釜(おらてがま)を描いた軸が掛けられている
その前に、裏千家8代 一燈宗室(又玄斎)の位牌が祀られている
<庭園>
江戸時代後期の秋里籬島の作庭といわれる
書院式露地の形式
苔地に、中木の植栽と石組、飛石、延段などがある
<半月の手水鉢>
庭園の本堂の前にある手水鉢
円山応挙の作
<墓地>
福島正則と、次男 福島忠勝の五輪塔が並んで立っている
福島正則の墓は全国に5ヶ所あるといわれる
福島忠勝孫 福島正勝や、福島家家臣などのお墓
公卿 町尻説久と、公家 町尻家一族のお墓
<本尊 釈迦如来坐像>
建仁寺末寺 永源寺より遷されたもの
<紙本墨画「福島正則像」>
曾我蕭白の筆
衣冠姿の福島正則を描く
海福院2世 斯経慧梁(しぎょうえりょう)の賛がある
<福島正則画像>
福島正則家臣が描いたといわれる
<福島正則の長槍>
本堂の部屋の長押に置かれている
戦国武将 福島正則が、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで一番槍として戦功をあげた槍(やり)
約3m
福島正則は、賤ケ岳七本槍の一人とされる
<襖絵「山水図」>
狩野益信(かのうますのぶ)の筆
<襖絵「猿回しの図」>
妙心寺法堂の雲龍図を8年がかりで描いていた狩野探幽が、海福院で宿泊しており、
住職の留守中に、酔っ払って新調されたばかりの金箔桐紋唐紙の襖にいたずら描きをした絵
帰ってきた住職に叱責されたという
ほとんどの金箔が剥がれ落ちてしまい、下地に描かれた部分が少し残っている
金箔桐紋唐紙は、1616年(皇紀2276)元和2年の制作
桐紋の配置、図柄が、桂離宮古書院で使われている唐紙桐紋と同じとされる
<斯経慧梁肖像画>
円山応挙の作
<曾我蕭白の筆の襖絵>
<岸岱の筆の襖絵>
<夬室禅師像>
<斯経禅師像>
<福島正則「陣中杯」「書状」>
<陣中杯>
血痕が残っている貝殻の杯
戦で死んだ者の血を入れて供養のために飲み干したといわれる
<福島正則(ふくしままさのり)>
桃山時代から江戸時代初期にかけての戦国武将・大名
福島正則は、賤ケ岳七本槍の一人とされる
<賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)>
1583年(皇紀2243)天正11年
近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)の賤ヶ岳附近で行われた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家との戦い
織田信長の権力と体制の継承者となることを決定付けた戦い