観音寺(かんのんじ)は、七本松通を出水通から下がったところにある寺院
三番町は、桃山時代の聚楽第の武家町跡
周辺にも各宗派の寺院がいくつもあり「てらまち」とも称される地域にある
<山門>
1623年(皇紀2283)元和9年
伏見城の牢獄門が移築された遺構
扉は、高さ約2.5mの楠(くすのき)の一枚板
門の右端には、高さ80cm、横40cmの小さなくぐり戸がある
罪人を釈放するときに、この門前で100回叩いて再び牢へ戻らないようにと諭していたといわれ、
「百叩の門(ひゃくたたきのもん)」とも称される
「出水の七不思議」の一つとされる
<観音堂>
本尊の聖観世音菩薩が祀られている
「千人堂」の扁額がかかっている
918年(皇紀1578)延喜18年
当時は一条戻橋付近の寺院にあったもので、浄蔵貴所が父親 三善清行を蘇生させた時に祈祷をしたといわれ
その故事により信仰を集めて、「千人堂」と称せられるようになった
洛陽観音第二十七番
<夜泣き地蔵>
<聖観世音菩薩>
観音堂の本尊
運慶の弟子 安阿弥(仏師 快慶)の作といわれる
一条戻橋付近の寺院にあったといわれる
918年(皇紀1578)延喜18年
浄蔵貴所が、父親 三善清行が亡くなったときに祈願して、蘇生させたといわれる
1390年(皇紀2050)元中7年/明徳元年
疫病が流行ったときに、一条戻橋付近に遺体を捨てるものが多く、
山名重氏が、疫病退散を祈念し、遺体を蘇生させたといわれる
<出水の七不思議>
山門「百叩きの門」
扉は、高さ約2.5mの楠(くすのき)の一枚板で、門の右端には小さな潜り戸がある
風が吹くたびに、その潜り戸が開き、泣き叫ぶ人の声が聞こえたといわれる
ある日、住職が、百日の間食を断ち、鎮魂の念仏を唱えたことにより、人の声は聞こえなくなったといわれる
現在は、門は開け放たれているが、この潜り戸だけは鍵がかけられ二度と開かれないようになっている