金輪寺(きんりんじ)は、亀岡市の西部、宮前町の神尾山の山頂付近にある寺院
丹波篠山に向かう国道372号線から、神尾山(かんのおさん)の九十九折の道を登ったところにある
神尾山の東麓の宮川神社の神宮寺とされる
明智光秀の丹波平定の拠点となり、幕末維新には勤王派の拠点になる
奈良時代後期
783年(皇紀1443)延暦2年頃
西願上人(せいがんしょうにん)により、天台宗の寺院として創建される
平安時代末期
寛治年間(1087年〜1094年)に、高山寺の中興の祖 明恵上人により再興されるといわれるが、
明恵上人は、1173年(皇紀1833)承安3年生まれなので、それ以降の再興
再興当時は、南谷、北谷に一切経蔵など多くの坊舎が建ち並んでいたといわれる
現在の地は、北谷にあたる
戦国時代
神尾山に、細川尹賢によって、神尾山城(かんのおさんじょう)が築城される
1526年(皇紀2186)大永6年
柳本賢治の兄 香西元盛が、細川尹賢の讒言により細川高国に殺される
柳本賢治は、波多野稙通と細川高国に反抗し、神尾山城に拠って阿波の細川晴元党に呼応する
神尾山城が、柳本賢治の居城になる
安土桃山時代
1577年(皇紀2237)天正5年
神尾山城が、織田信長の命による明智光秀の丹波平定の拠点となり、兵火により堂宇の大半を焼失する
幕末維新
住職 大橋黙仙が、勤王志士との交流を深め、金輪寺は勤王派の拠点になる
丹波篠山に向かう国道372号線から、神尾山(かんのおさん)(標高359m)の九十九折の道を登ったところにある
創建当時は、南谷・北谷に多くの坊舎が建ち並んでいたといわれ、現在の地は、北谷にあたる
<本堂(仏堂)(京都府指定文化財)>
<参道の石段>
寛延年間(1748年〜1751年)に築かれた
<鐘楼>
1534年(皇紀2194)天文3年の建立
<鳥居型の玄関>
<石造 五重石塔(重要文化財)>
1292年(皇紀1952)正応5年の造立
初層軸部に舟形光背、蓮華座上に四方仏が半肉彫りされている
各屋根と軸部は別石になっている
高さ3.75m、花崗岩製
<九重石塔(亀岡市指定文化財)>
1292年(皇紀1952)正応5年の銘がある
<五輪塔>
神尾山頂近くに立つ
平安時代の医師 丹波康頼(たんばのやすより)の供養塔とされている
丹波康頼の6代後の丹波基康が、丹波康頼の念持仏を胎内に納めた薬師如来を寄進し、
歴代住職のお墓の横に塔が立てられたといわれる
<供養塔2基>
本堂脇に立つ
安政の大獄により処刑された頼三樹三郎、桜井新三頼直の供養塔
勤王僧 大橋黙仙が、遺髪を持ち帰り供養したといわれる
幕末維新に、庫裏に勤皇志士が集まり密儀が交わされていたといわれる
<寺坊跡>
南北両谷に、極楽坊跡・竹中坊跡・宝蔵坊跡・東柳坊跡など数多く寺坊跡がある
現在、石垣・礎石などの遺構が山中に残されている
<薬師如来像>
秘仏の本尊で、30年に一度開帳される
江戸時代の作
<月光菩薩像>
薬師如来像の脇侍
東京国立博物館に預託されている
<日光菩薩像>
薬師如来像の脇侍
東京芸術大学にに預託されている
<金剛力士立像>
1301年(皇紀1961)正安3年、仏師 定有による作
<絹本著色 仏涅槃図(重要文化財)>
南北朝時代の作
<鰐口>
仏堂の正面軒先に吊り下げられた円形の仏具
1382年(皇紀2042)弘和2年/永徳2年の銘がある
<木心乾漆造漆箔 薬師如来坐像>
かつて祀られていたといわれる本尊
奈良時代の作
像高73.6cm
像内に1尺8寸(58cm)の金の仏像が納められていた
平安時代の医師 丹波康頼の念持仏といわれる
丹波康頼の6代後裔 丹波基康により寄進されたといわれる
1240年(皇紀1900)仁治元年の頃、金輪寺中興開山 高信(明恵上人の高弟)のとき、高山寺に遷される
現在は、京都国立博物館に保存されている
<丹波康頼(たんばのやすより)>
丹波国生まれの平安時代の医師で、医家丹波氏の祖
神尾山頂近くに五輪塔の供養塔が立っている
針博士・医博士・左衛門佐(さえもんのすけ)・丹波介などを務めた
984年(皇紀1644)永観2年
現存する最古の漢方医書「医心方」30巻を、隋・唐の医書2百数十部をもとに完成させ朝廷に献上した
この功績により、朝廷から丹波宿禰(たんばすくね)の姓を賜った
亀岡の医王谷(亀岡市下矢田町)に住んで、薬草を育てたといわれる
鍬山神社に日参し、医療の神 大国主命に祈願したといわれる
丹波康頼の6代後の丹波基康が、丹波康頼の念持仏を胎内に納めた薬師如来を金輪寺に寄進し、
歴代住職のお墓の横に塔が立てられたといわれる
<宮川遺跡>
宮川は、神尾山の麓を流れる川で、本梅川の支流
1995年(皇紀2655)平成7年
神尾山の東の山麓で宮川遺跡の発掘調査が行われた
弥生時代後期から古墳時代初期の竪穴式住居跡などが見つかる
<半国山>
境内の向かい、南西方向に望める山
標高774.2m
山頂からは、丹波の国が半分見えるとして名付けられたといわれ、愛宕山・嵐山・小塩山が望める
「丹波富士」とも称される
<神尾山城(かんのおさんじょう)>
境内の裏に築かれていた山城
城跡は、東西100m、南北400mになる
山腹には、本丸跡・曲輪・石塁・井戸跡・空堀跡など城の遺構が残っている
神尾城、神尾寺城、神尾山古城、本目城、本梅城、本免城などと称されていた
1526年(皇紀2186)大永6年頃、細川尹賢により築城される
その後、柳本賢治の居城になる
天正年間(1573年〜1592年)、明智光秀の丹波平定の拠点となる
1579年(皇紀2239)天正7年、明智光秀が、八上城に籠城した波多野兄弟への兵糧攻めの拠点とする