金地院(こんちいん)は、南禅寺の勅使門の手前右側にある塔頭
庭園「鶴亀の庭」(国の特別名勝)は、小堀遠州の確証された唯一の蓬莱式枯山水庭園
徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり「黒衣の宰相」と称された南禅寺の中興開山の以心崇伝によって
現在の地に移築され再興される
以心崇伝が、宗教界全体の取締りを行う僧録司(そうろくし)となり、以後、幕末まで金地院が僧録司の地位にあった
<方丈(重要文化財)>
1611年(皇紀2271)慶長16年
以心崇伝が、伏見城の一部を徳川家光から賜り、移築したもの
将軍を迎えるための御成御殿の役割を担っていた
11間7間、桁行26.3m、梁間19.6m、柿葺(こけらぶき)・入母屋造・書院造の代表建築
正面に、一刀正伝無刀流の開祖 山岡鉄舟の筆の額「布金道場」が掛かっている
襖絵は、狩野探幽の「仙人遊楽の図」や狩野尚信の「松・梅の図」「仙人図」「群鶴図」で飾られている
仏間には、鎌倉時代の快慶の作といわれる本尊 地蔵菩薩が祀られている
上之間、室中、下之間がある
小書院の襖絵は、長谷川等伯筆の「猿猴捉月図」と「老松」(いづれも重要文化財)
<東照宮(重要文化財)>
本殿・石の間・拝殿の1棟造
京都で唯一の権現造
日光東照宮に向いて東面して建てられている
1628年(皇紀2288)寛永5年
以心崇伝が、徳川家康の遺言により創建し、徳川家康の遺髪と念持仏が祀られた
小堀遠州により設計された
拝殿天井の「鳴龍」は、狩野探幽の筆
欄間に掲げられている三十六歌仙の額は、土佐光起の絵に、和歌は青蓮院尊純法親王の筆
拝殿には、金色銅製の「金扇馬印(徳川将軍旗印)」が飾られている
<楼門>
「東照宮」の扁額が掲げられている
<開山堂>
以心崇伝の塔所
正面に、後水尾天皇の勅額を掲げる
左右両側には、十六羅漢像が安置されている
<明智門(唐門)>
1582年(皇紀2242)天正10年
明智光秀が、母の菩提のため大徳寺内に建立したもの
1868年(皇紀2528)明治元年
現在の地に移築される
<鶴亀の庭(国の特別名勝)>
方丈南に位置する方丈前庭で、約1500坪の広さがある
1632年(皇紀2292)寛永9年の完成で、
以心崇伝が、徳川家光のために小堀遠州に作らせた庭
小堀遠州が図面を引いた作庭であることの詳細な資料が残っている唯一のもので、重要な遺蹟になっている
桃山時代の風格と格式の整った江戸時代初期の蓬莱式枯山水庭園で、代表的な京都の庭園の一つ
座観式で、方丈の柱などを含めて額縁庭園になっている
方丈の西奥の端、上段の間から、全体が見渡せるように設計されている
来訪者の万世を寿ぐ祝儀の庭といわれ、華やかであり、禅寺としては珍しい庭とされる
広い白砂の面と石組、大刈込からなり、庭いっぱいに鶴亀が向かい合う姿が表現されている
前面の白砂は、宝船と同時に大洋を表しているといわれる
高台地の山林を大刈込を背景にして、深山幽谷を表すといわれる
鶴島と亀島の中間に郡仙島を現した石が点在し、その奥の正面崖地には蓬莱連山を表わす三尊石組が置かれている
石は、東から西に向かって徐々に小さくなっており、遠近法により東西の庭面を広く見せる工夫がされている
三尊石組の中央の3畳の大きな長形の平面石は、東照宮の遥拝石とされる
遥拝石の右(西側)に、安芸城主 浅野家より贈られた「鶴首石(かくしゅせき)」が置かれている
安芸から淀川をのぼり、伏見港から牛45頭で陸路で牽かれてきたといわれる
鶴首石の右(西側)に「鶴島」があり、松が植えられ、土盛りの胴には羽石が三尊形式で組まれている
遥拝石の左(東側)には、「亀頭石」とその左に「亀島」がある
亀島には、曲がった枝ぶりの槙柏(イブキ)が植えられている
亀島の中央には、土盛りの「亀甲石(三尊石)」が組まれ、島の左端には立石の「亀尾石」が立てられている
遥拝石を真ん中にして、鶴と亀が向かい合う姿になっている
前面の白砂は、海洋と宝船が表され、右(西側)の飛石で仕切られた白砂は、舟の舳先を表している
方丈の正面には、左から甲羅石・亀石・頭石・嘴石・鶴石・羽石・織部燈籠などが置かれている
開山堂の前から方丈の白砂に向かう途中には、巨大な反った2枚の石橋が架かっている
<茶室「八窓席(はっそうのせき)」(重要文化財)>
以心崇伝の依頼により、方丈北側の小書院に付設された茶席
小堀遠州の設計
貴人座、赤松皮付の床柱に黒塗框という取り合わせなど、小堀遠州が好んだ三畳台目の典型的な茶室
京都三名席(大徳寺孤篷庵の「忘筌席」、曼殊院の「八窓席」)の一つとされる
正面に西向きに床があり、その北に手前座がある
手前座に、椿の中柱を立てて、松の床柱との間に袖壁をつけて下地窓をつけ、勝手窓を大きくとって席を明るくしている
手前座の東にある火灯形の出入口が茶道口、南の襖2枚が貴人口になっている
西の躙口は、中連子窓の下の中央にあり、外縁を設けて、庭から縁側に上がってから入るなど、珍しい手法が用いられている
天井は、北側間半通が掛込天井、その他は竹を棹縁とした蒲天井になっている
創建当時には、墨跡窓、下地窓など名称の通り8つの窓があったが、明治時代の修築で6つとなった
西の躙口上の連子窓1つ、北の連子窓2つ、手前席背後の下地窓1つ、床の墨跡窓1つ、中柱袖壁の下地窓1つの計6つ
席を明るくし、窓に映る光と影の変化を楽しむために開けられているといわれる
小書院からも入れ、6畳の鎖之間が、茶室と書院をつないでいる
茶道口を出ると裏茶席になっており、北側には水屋がある
水屋の先にある石の手水鉢は、立って使えるように背の高い円柱形になっている
<弁天池>
<鎮守堂>
<庫裏>
<以心崇伝のお墓>
開山堂に以心崇伝のお墓がある
<墓地>
画家 浅井忠のお墓がある
<イブキ>
鶴亀の庭の亀島に立っている
作庭時に古木を植えたもので、樹齢700年といわれる
<椎の樹(しいのき)>
金地院の西方の土塀の外側に立つ
ブナ科のツブラシイ
<くろがねもち>
東照宮の裏(南側)に立つ
モチノキ科のクロガネモチ
<石碑「戊辰伏見鳥羽之役 東軍戦士人追悼碑」>
東照宮築地塀の外の南側に立っている
1868年(皇紀2528)慶応4年の鳥羽・伏見の戦いの幕府軍戦没者の慰霊碑
<紙本墨画 「溪陰小築図(けいいんしょうちくず)」(国宝)>
詩画軸、大きさ101.5×34.5cm
1413年(皇紀2073)応永20年
画僧 明兆の筆、太白真玄が序を書き、大岳周崇ら6人の五山僧が題詩を書いている
南禅寺の僧 子璞(しはく)のために、子璞の心の中の書斎「渓隠」を描いたといわれる
詩画軸(掛軸の下方に絵を描き、上方にその絵と関わる漢詩文を書いたもの)の現存する最古の作品
東京国立博物館に寄託されている
<絹本着色 「秋景山水図」「冬景山水図」(国宝)>
大きさ各127×54.5cm
中国 北宋8代皇帝 徽宗皇帝(きそうこうてい)の筆といわれる水墨淡彩の風景画
足利将軍家所蔵の東山御物に含まれる唐物の宝物で「御物御画目録」にも記されている
山梨県久遠寺所蔵の「夏景山水図(国宝)」と、現在は失われてしまった「春景幅」とで、四幅一対の「四季山水」であったといわれる
秋景図は、斜めの松の枝と幹に横たわり、天空を舞う鶴の行方を見つめる人物が描かれている
冬景図では、斜めに引かれた二つの岩の延長上に、岩山の道で猿の声に振りかえる人物が描かれている
京都国立博物館に寄託されている
<紙本墨画 「猿猴捉月図(えんこうそくげつず)」4面(重要文化財)>
方丈の小書院の襖絵
長谷川等伯の筆
水面の月を捉えようとする猿の姿を表した
<紙本墨画 「老松図」6面>
方丈の小書院の襖絵
長谷川等伯の筆
太い松の幹が描かれている
大徳寺所蔵の牧谿画(もっけいが)に習ったといわれる
<紙本墨画 山水図(楼閣山水図)(重要文化財)>
狩野元信の作といわれる
<絹本墨画 山水図(重要文化財)>
中国 元時代の画家 高然暉(こうねんき)の筆といわれる
<本光国師日記(ほんこうこくしにっき)46冊(重要文化財)>
以心崇伝の日記
武家諸法度の起草や、豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺の鐘銘事件などが記されている
江戸幕府の寺社や朝廷に対する政策などを知ることができる貴重な史料とされる
<武家諸法度草稿(重要文化財)>
以心崇伝の自筆の武家諸法度の草案
1615年(皇紀2275)慶長20年
徳川家康が、以心崇伝らに起草させる
文武の奨励、居城の新築禁止など、大名が厳守すべき事項が定められた
<異国日記 2冊(重要文化財)>
徳川家康の信任を受けて政治外交の顧問として活躍した以心崇伝の外交に関する日記
<異国渡海御朱印帳・異国近年御書草案 1冊(重要文化財)>
<異国日記御記録雑記(重要文化財)>
<慶長十九年林道春及び五山衆試文稿(重要文化財)>
六曲屏風一双
<濃比須般国への返書案(重要文化財)>
以心崇伝の筆
<惟康親王願文(重要文化財)>
金銀の切箔や彩色下絵のある装飾料紙に書かれている
鎌倉幕府6代将軍 宗尊親王(嵯峨天皇の皇子)の没後100日の法要のときに、息子 7代将軍 惟康親王が行った法要の願文
<本尊 地蔵菩薩>
方丈の仏間に祀られている
鎌倉時代の快慶の作といわれる
<十六羅漢像>
開山堂の正面左右に安置されている
<牡丹尾長鳥堆黒盆>
中国 元時代の作
黒漆の層を何層にも塗り重ねて、刃物で彫り出して文様を出す漆芸技法の一つ「堆黒(ついこく)」が用いられている
<本光国師 以心崇伝像>
南禅寺の中興の祖 以心崇伝の頂相(ちんそう)(肖像画)
狩野探幽が、以心崇伝の死後に描いたもの
<以心号>
1581年(皇紀2241)天正9年
梅谷元保(ばいこくげんほ)が、13歳の崇伝に書き与えた道号
これ以降「以心崇伝」と名乗る
<九条袈裟>
以心崇伝が使用したといわれる九条袈裟
鮮やかな模様の中国裂(ちゅうごくきれきれ)が用いられている
<以心崇伝遺偈>
以心崇伝自筆の遺偈
遺偈(ゆいげ)とは、高僧が死ぬ前に弟子や後世へ教訓などを記した漢詩
<三十祖像>
禅宗の祖である達磨から歴代30人の祖師像
雪舟の流れをくむ毛利家の御用絵師 雲谷等顔(うんこくとうがん)の作
<最嶽元良像>
徳川将軍家の御用絵師 狩野常信が描いた金地院二世 最嶽元良(さいがくげんりょう)の肖像
水戸徳川家2代藩主 徳川光圀の賛がある
<修正大般若会> 1月1日から3日
<祟伝の命日> 2月19日・20日
<春季彼岸会> 3月18日
<秋季彼岸会> 9月20日
<大業徳基禅師開基忌> 10月14日
<作家 谷崎潤一郎>
一時、南禅寺に近い下河原町に住んでいた
小説「月と狂言師」において、金地院の秋の庭と月について書かれている
「山上の月は遠くとも水面の月は手を以て掬することが出来るかもしれない」
<僧録>
室町幕府において、寺院の人事、訴訟などを統括する僧録司の制度が置かれた
1615年(皇紀2275)元和元年
江戸幕府の五山十刹諸山之法度制定により廃止され、幕府の直接支配になる
1619年(皇紀2279)元和5年
南禅寺の以心崇伝が金地院僧録に任じられ、僧録は、1868年(皇紀2528)明治元年まで続いた
<名前の由来>
釈迦がこの世で修行中のとき、弟子の須達長者が、金片で土地を買い求めて、祇園精舎を造営して貢献したことに由来するといわれる