金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、岡崎の北東、鹿ヶ谷の西、真如堂の南に隣接している寺院
法然上人が初めて草庵を創建した浄土宗の最初の寺院で、知恩院と並ぶ格式をもつ浄土宗の大本山
幕末維新には、京都市中警護のために、京都守護職 松平容保が率いる会津藩の本陣となる
江戸時代初期
金戒光明寺は、同じ浄土宗の知恩院とともに城郭構造に改築されている
大軍が一度に入れないよう、南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた
黒谷は小高い岡になっており、自然の要塞として、西は大山崎(天王山)・淀川・大阪城まで見渡せたという
御所まで約2km、粟田口(三条大橋東)(東海道の発着点)まで約1.5kmで、馬で約5分・人が走って約15分の要衝の地だった
<三門(重要文化財)>
応仁の乱で焼失
1860年(皇紀2520)万延元年の再建
桜上正面に、後小松天皇宸翰の「浄土真宗最初門」の勅額がある
<文殊塔(三重塔)(重要文化財)>
江戸時代初期
1633年(皇紀2293)寛永10年
徳川秀忠の菩提のために建立される
運慶の作といわれる本尊の文殊菩薩と脇侍が安置されている
現在、京都市内にある重要文化財の三重塔は、清水寺・子安塔(こやすのとう)・文殊塔の三塔のみ
<御影堂(みえいどう)>
「大殿(だいでん)」とも称される
正面に、宗祖 法然上人が75歳の時の御影座像が安置されている
脇壇(わきだん)には、京都七観音・洛陽三十三観音の一つで、吉田寺の旧本尊といわれる千手観音菩薩立像が安置されている
1934年(皇紀2594)昭和9年に火災により焼失
1944年(皇紀2604)昭和19年の再建
堂内の光線と音響にこだわった昭和時代の模範建築物
<阿弥陀堂>
本尊の阿弥陀如来が安置されている
1605年(皇紀2265)慶長10年
豊臣秀頼により再建される
金戒光明寺の中で、最も古い建物
<大方丈>
「虎の間」などがある
1934年(皇紀2594)昭和9年に火災により焼失
1944年(皇紀2604)昭和19年の再建
<紫雲の庭>
2006年(皇紀2666)平成18年
5年後の宗祖 法然上人の800回忌を記念して
大方丈東側に面した庭園を、新たに整備した枯山水庭園
広さ約700m2
白砂と杉苔が敷き詰められ、法然上人の誕生から開宗までの足跡と、金戒光明寺の発展を
・美作(現在の岡山県)での幼少時代
・延暦寺での修行の時代
・浄土宗を開き、念仏を広めた時代
の3つのエリアで構成されている
法然上人の成長を大小の石で表わされ、
師匠の叡空や、弟子の源智上人と信空、黒谷で法然上人の弟子となった源氏武者熊谷直実など縁の深い人物も表現されている
<御廟>
上人の分骨が納められ、廟前には熊谷蓮生坊直實(くまがいれんせいぼうなおざね)と平敦盛の供養塔二基が立てられている
<西門>
黒谷に大軍が一度に入れないよう、小さな門とされた
<直実鎧掛けの松(京都市指定保存樹)>
熊谷次郎直実が出家をするときに、鎧を洗いそれを掛けたといわれる松の樹
元の松は枯れたが、それを引き継いだ二代目の樹
<西翁院>
茶室 澱看席(重要文化財)
江戸時代初期の茶人 千宗旦の四天王の一人の藤村庸軒(ようけん)が好んだといわれる
道具の運びに工夫を加えた「道安囲い(どうあんがこい)」「宗貞囲い(そうていがこい)」と称される形式の茶室
茶室から、山崎や淀川の帆船が見えたことから名付けられた
<西雲院>
境内に会津藩殉難者墓所がある
<紫雲山 蓮池院>
「熊谷堂」と称される
熊谷次郎直実が出家し、法力房蓮生法師となり、草庵を創建したのが由来
熊谷次郎直実は、平家の武将だったが、源氏方として戦い、殺生の虚しさから、法然上人に帰依し、
金戒光明寺で、馬を降り、鎧を洗い松の枝にかけ出家する
蓮池は、熊谷次郎直実が兜を置いたところで「兜之池」と称される
後に、春日局が、池に蓮を植え、堂を改修して「蓮池院 熊谷堂」と改称した
<栄摂院>
<常光院>
<金光院>
<永運院>
<松樹院>
<勢至院>
<浄源院>
<善教院>
<光安寺>
<超覚院>
<西住院>
<瑞泉院>
<長安院>
<龍光院>
<顕岑院>
<会津藩殉難者墓所(あいづはんじゅんなんしゃぼしょ)>
山上墓地北東にあり、塔頭 西雲院で管理されている
1862年(皇紀2522)文久2年
会津藩藩主 松平容保が、京都守護職に任命されると、金戒光明寺が本拠地とされ、大方丈と宿坊25ヶ寺に会津藩藩士が分宿した
それ以降、1868年(皇紀2528)慶応4年正月の鳥羽・伏見の戦いなど、会津藩藩士戦没者352名の墓所となっている
会津松平家が神道であったため、約7割ほどの人々が祖霊として葬られている
墓所の前には、石碑が立っている
毎年6月第2日曜日には、西雲院により、会津松平家の当主を招き会津藩殉難者追悼法要が行われている
<清和天皇火葬塚>
清和天皇は、水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)に埋葬される
<熊谷次郎直実(蓮生法師)の五輪の塔>
法然上人廟の前にある
熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の平家の武将
石橋山の戦い以後は、源氏方として戦い、一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取る
殺生の虚しさから、源平の戦いに参加しなくなり、
金戒光明寺で、馬を降り、鎧を洗い松の枝にかけ、法然上人に帰依する
その後、出家して庵を創建し、法力房蓮生法師となる
1198年(皇紀1858)建久9年
粟生に念仏三昧院を建立し、後の西山浄土宗の総本山 粟生光明寺の由来となる
墓所は熊谷寺で、遺骨は西山の念仏三昧堂(粟生光明寺)に安置されたとされる
<熊谷一族墓所>
<八橋検校墓所>
江戸時代前期の筝曲の創始者 八橋検校(やつはしけんぎょう)のお墓
八橋検校のお墓への参拝者に、参道の茶店が、琴の形をした菓子を出したことが京菓子「八橋」の由来といわれる
<山崎闇斎墓所>
山崎闇斎(やまざきあんさい)は、江戸時代前期の儒者・朱子学者・神道家・思想家
京都で仏門に入りるが、儒学者 野中兼山(のなかけんざん)に誘われ土佐へ移り、儒学者 谷時中(たにじちゅ)に師事して儒学を学ぶ
江戸に遊学して、会津藩藩主 保科正之(ほしなまさゆき)らと活発に活動した
その後、帰京し、儒学と神道を合一した垂加神道(すいかしんとう)を唱えた
<春日局墓所>
江戸幕府3代将軍 徳川家光の乳母
<山中鹿之助幸盛の五輪塔>
戦国大名 尼子氏の家臣
本姓は源氏で、宇多源氏の流れを汲む佐々木氏(京極氏)の支流の家系
<田中吉政墓所>
塔頭の黒谷龍光院西墓地にある
柳川藩32万石の藩主 田中吉政のお墓
2008年(皇紀2668)平成20年3月
没後399年の法要が行われた
<侠客 会津小鉄墓所>
会津墓地西側の西雲院庫裡前にある
本名、上阪仙吉(こうさかせんきち)
会津藩 松平容保が京都守護職在職中は、表の家業を口入れ屋として、新選組の密偵として大活躍をした
会津藩が鳥羽・伏見の戦いで賊軍とされ、戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを、子分約200名を動員し、
迫害も恐れず収容し、近くの寺で荼毘に付し回向供養した
さらに、松平容保の恩義に報いるために、会津墓地を西雲院住職とともに死守し、整備を行っていたといわれる
<藤村庸軒墓所>
藤村庸軒(ふじむらようけん)は茶人
<吉備観音(重要文化財)>
半丈六(2m60cm)の大きな木造千手観音菩薩立像
奈良時代後期
753年(皇紀1413)天平勝宝5年
学者 吉備真備(きびのまきび)が、2度目の遣唐使の帰国のとき、船が遭難しそうになり「南無観世音菩薩」と唱えたところ、
すぐさま難を免れることができたことで、
吉備真備が、唐より持ち帰った栴檀香木で、行基菩薩に頼んで刻んでもらった観音菩薩像
吉田中山 吉田寺に祀られていた
聖武天皇が勅願所として定められ、「厄除け」「道中守護」「交通安全」「諸願成就」の御利益があると信仰されている
宮中で御懐妊があれば、勅使により安産祈願と、肥立開運祈願が行われる「安産守護」の本尊とされていた
1668年(皇紀2328)寛文8年
吉田寺が廃寺となり、徳川幕府の命で、金戒光明寺へ移された
平安時代末期
後白河法皇が定めた洛陽三十三所観音巡礼の第六番札所
鎌倉時代
京都七観音(行願寺・清和院・吉田寺・清水寺・六波羅蜜寺・六角堂・三十三間堂)の一つ
<絹本著色 山越阿弥陀図・地獄極楽図(重要文化財)>
<阿弥陀如来>
阿弥陀堂の本尊
恵心僧都 源信の最終の作といわれる
阿弥陀如来の腹中に、一代彫刻の使用器具が納められており、「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と称される
<文殊菩薩騎獅像(もんじゅぼさつきしぞう)(京都市指定文化財)>
鎌倉時代の運慶の作といわれる
後頭部付近に直径10cm、高さ10cm程の円筒形の金属製の容器や、仏舎利を収めたとみられる小さな容器が納入されている
日本三文殊の一つ
北西にあった中山宝幢寺(ほうどうじ)の本尊だったが、応仁の乱の兵火により廃寺となり近くに小堂が造られ祀られていた
その後、金戒光明寺の方丈に移される
1633年(皇紀2293)寛永10年
豊永堅齋が、2代将軍 徳川秀忠の菩提のために、三重塔を建立した時に本尊として移される
「雍州府誌(1686年(皇紀2346)貞享3年の刊)」によると、
「本朝三文殊の一つ」とされ、奈良の「安倍の文殊」・天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていたといわれる
渡海文殊形式
獅子に騎乗する総高2.8mの文殊菩薩を中心とし等身大の眷属4躯
(手綱を執る優填王(うてんおう)・仏陀波利三蔵(ぶっだはりさんぞう)・最勝老人(さいしょうろうじん)・善財童子)
善財童子は、欠失していたが古式に準じて新調されたもの
2008年(皇紀2668)平成20年4月22日
法然上人八百年遠忌を記念して、秘仏だったものが公開されるようになった
総檜造本漆塗蝋色仕様の壇に「白檀かけ」という金箔押しに生漆塗りを施した背板を取り付けた須彌壇が作られ、
御影堂の左脇に安置され、御遷座開眼法要が行われた
<五劫思惟阿弥陀如来像(ごこうしいあみだにょらいぞう)>
文殊搭へ向かう石段のふもと左手におられる
螺髪が多く「アフロ仏像」とも称される
法蔵が、螺髪が伸び放題になるほどの長い時間(五劫)を費やして衆生救済を考え、48の願をかけ、大願成就し
阿弥陀如来になったといわれる
「劫」は、ヒンドゥー教の神話世界での時間の単位であり、「一劫」は、一辺40里の大磐岩を、天女が3年に一度舞い降り
羽衣で撫で岩が擦り切れるまでの途方もない時間ともいう
<絹本着色山越阿弥陀図(重要文化財)>
<鏡の御影(みえい)>
法然上人の御真影
毎年4月23日の御忌法要においてのみ公開される
<一枚起請文>
法然上人真筆御遺訓
1212年(皇紀1872)建暦2年1月23日
法然上人が死去される2日前に筆をとって弟子の勢観房 源智上人に与えられたもの
毎年4月23日の御忌法要においてのみ公開される
<魚鳥施餓鬼(放生会)>
9月22日
京都料理組合が参列して、本堂にて魚鳥施餓鬼法要ののち鳩や、鯉が放生される
「としをへて またたのむべき かんぜおん いのちなりけり よしだなかやま」
<法然上人二十五霊場第二十四番 御詠歌>
「池の水 人の心に 似たりけり 濁り澄むこと 定めなければ」
<わらべうた>
「ああ真如堂(しんど) 飯(めし)黒谷(食ろうだに)
ここらでいっぷく 永観堂(ええかんどう) お茶漬けさらさら南禅寺(何膳じ)」
真如堂・金戒光明寺・永観堂・南禅寺が登場する