光悦寺(こうえつじ)は、郊外北西部の鷹峰三山(鷹ヶ峰・鷲ヶ峰・天ヶ峰)の南麓にある寺院
圓成寺の道をはさんだ真向かいに建つ
この付近は、「寛永の三筆」と称された芸術家 本阿弥光悦の一族や、様々な工芸職人らが移り住み芸術村となったところ
紅葉の名所、9月中旬〜下旬は、萩の花の名所
高低差のある境内全体が庭園となっており、小道は生垣に囲まれ、楓の木がたくさん植えられている
7つの茶室が点在する
背後に鷹ヶ峰の山並みや京都市内が一望できる
<本堂>
<庫裡>
<茶席 大虚庵>
本阿弥光悦が、80歳で亡くなるまでの晩年を過ごしたとされるところ
露地には石燈籠と本阿弥光悦遺愛の薄墨の手水鉢がある
1915年(皇紀2575)大正4年の再建
<光悦垣>
大虚庵を囲む、竹を斜めに組んだ垣根
竹を斜めに組み、徐々に高さの変る独特のもの
牛が寝そべったように見えることから「臥牛垣(ねうしがき)」とも称される
<茶席 三巴亭>
<茶席 了寂軒>
<茶席 徳友庵>
<茶席 本阿弥庵>
<茶席 騎牛庵>
<茶席 自得庵>
<妙秀庵>
庫裡に接して建っている
<翹秀軒(ぎょうしゅうけん)>
前方に、鷹ヶ峰・鷲ヶ峰を一望におさめる景勝の地にある茶室
<光悦堂>
本阿弥光悦の木像や、多くの遺品が残されている
<本阿弥光悦のお墓>
<本阿弥一族のお墓>
右から、養子 本阿弥光瑳、光瑳の息子(光悦の孫) 本阿弥光甫、本阿弥家一族の石碑が立っている
<木造光悦坐像>
1913年(皇紀2573)大正2年
高村光雲の作
<本阿弥家>
本阿弥家は、代々、刀剣の鑑定・磨礪(とぎ)・浄拭(のごひ)を家職としていた
京都の三長者(後藤・茶屋・角倉)に並ぶ富豪だったといわれる
<鷹ヶ峰>
鷹ヶ峰から、杉坂峠を越え中川への街道は、「山国道」「長坂越」とも称され、
丹波などから都への重要な都への街道だった
鎌倉時代末期には、関所がおかれた
江戸時代には、京の七口の長坂口となり、周山街道(福井県の若狭へ続く)への重要な物資の集散地として栄えた