光明寺(こうみょうじ)は、相国寺の東、鴨川の西の寺町通に並ぶ寺院の一つ
宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)ゆかりの抱止阿弥陀如来が祀られている
<山門>
<本堂>
<庫裏>
<鐘楼>
<地蔵舎>
<石碑>
<頼綱抱止阿弥陀如来>
本堂の正面に祀られている本尊
慈覚大師 円仁の作といわれる
承元年間(1207年〜1211年)
実信房蓮生(れんしょう)(宇都宮頼綱)が、京都西山に庵を結んでいたある夜、
夢の中で、深山幽谷をさまよっていた蓮生は、夜空を見上げると、白玉に飾られて光り輝く阿弥陀さんがおられた
蓮生は、「どこから来られたのですか?」と尋ねると、「善光寺から」と答えられたという
そこで夢から覚めた蓮生の目の前に、高さ三尺(約90cm)ほどの阿弥陀さんがおられた
蓮生は、念仏を唱え手をさしのべて御手をとり、抱き止めて、自分の袈裟をかけたといわれる
その後、阿弥陀さんを高野山光明院に移して祀ったという
室町時代に光明院が火災にあったとき、土の中に深くもぐっておられ無事だったという
1536年(皇紀2196)天文5年
性誉宗鎮和尚が現在の地に創建したときに移されて、本尊として祀られる
1788年(皇紀2448)天明8年の天明の大火
兵火で火災になったときにも、傷一つもなかったという
<宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)>
下野国(現在の栃木県)の豪族 宇都宮氏の第5代当主
1172年(皇紀1832)承安2年生まれ
1259年(皇紀1919)正元元年11月12日死去
北条時政の娘を妻として北条氏との結びつきを固めたが、
1205年(皇紀1865)元久2年
謀反の嫌疑を受けて出家し、「実信房蓮生」と号して、上京して法然上人に帰依する
歌道を藤原定家に学んで、娘を藤原定家の息子 藤原為家に嫁がせる
小倉山山麓の山荘の障子に、藤原定家に、古来からの歌人100名の歌を各1首を選定して書いてもらったことが
小倉百人一首の由来となる
お墓は、善峯寺にある