興臨院(こうりんいん)(KourinIn)

所在地:京都市北区紫野大徳寺町   卍地図情報卍

臨済宗大本山 大徳寺塔頭

本尊:釈迦如来

開基:畠山義総

開山:仏智大通禅師 小渓紹付和尚


 興臨院(こうりんいん)は、紫野にある大徳寺塔頭の一つ

 龍源院を本院として、本派南派に属する

 戦国時代に能登の畠山義総により、畠山家の菩提寺として創建され、
 その後、加賀百万石の基礎を築いた前田利家により改修が行われ、前田家の菩提寺となり庇護されてきた

【興臨院の歴史・経緯】


【興臨院の伽藍】

 <方丈(本堂)(重要文化財)>
 方丈形式、一重、入母屋造、桁行14.8m、梁間12.1m、檜皮葺
 室町時代の方丈建築様式
 6室ある
 南面の中央に「室中」、その奥に「仏間」、さらに奥(北面)に「眠蔵(めんぞう)」、南東に「礼の間(西の間)」、
その奥(北面)に「書院の間」、南面西に「檀那の間(東の間)」、その奥(北面)に「衣鉢の間」がある
 屋内後列中央の仏間と、仏間裏の眠蔵(めんぞう)は、室町時代の建築様式の特色となっている
 仏間に、開山の小渓紹怤(仏智大通禅師)木像、本尊の釈迦如来が祀られている
 その脇に、歴代住職、畠山家、前田利家など前田家の位牌が祀られている

 書院の間は、日本最初の床の間といわれる
 畳の床の間になっており、上下2本の框(かまち)があり、下は少し奥まった「蹴り込み框」になっている
 室中の上部は、響き天井となっており、天井下で手をたたくと反響する
 狩野元信や土佐光信などの障壁画が飾られていたといわれる

 1533年(皇紀2193)天文2年の再建
 1581年(皇紀2241)天正9年
 前田利家によって、屋根の葺替などの修復が行われる


 <表門(重要文化財)>
 一間一戸、平唐門、檜皮葺
 創建当初のもので大徳寺の中でも古い門といわれ「興臨院の古門」と称される
 2本の門柱の頭が高く出ており、蟇股を左右から挟んでいる
 縣魚(あがたうお)(棟木の端を隠し風化から守る部材)の唐草模様の中が透し彫りになっている

 <唐門(重要文化財)>
 唐破風屋根が付いた檜皮葺
 室町時代の禅宗建築様式
 波形の連子窓、客待の花頭窓などある


 <茶室 涵虚亭(かんきょてい)(涵虚亭)>
 古田織部好み
 中国北宋時代の政治家・詩人 蘇東坡(そとうば)の詩文にちなみ「何も考えずにくつろぐ」という意味がある
 四畳台目隅板付の茶室と、四畳半の水屋からなる
 格子組を補強するために四隅に付ける三角形の力板(隅板)が付けられている
 「貴人口」「給仕口」が板敷きになっている
 給仕口のすぐ右が床の間になっている
 床の間は、袖壁が出ているために洞のように見えることから「洞床(ほらどこ)」と称される
 平天井、掛込天井、落天井の様式がみられる
 1928年(皇紀2588)昭和3年
 尾道出身の山口玄洞により建立された


 <方丈前庭>
 方丈の南の前庭
 中国 浙江省 天台山 国清寺に暮らしていた僧 寒山と捨得の理想的な蓬莱世界を表したものといわれる枯山水庭園
 東西に細長く、白砂・築山があり、安土桃山時代の豪放な石組・石橋・松などが置かれている
 白砂敷に奥に2つの低い苔の築山があり、山の間には谷があり、石橋が架かっている
 橋の手前の白砂に2つの石が立てられ、そのさらに前右に波分石、左に水分石がある

 1975年(皇紀2635)昭和50年
 方丈の解体修理の時に、畠山氏の「越前大守書院庭園図」を参考に、中根金作により復元された
 古代インドで経文を書写するために用いられていた葉の名木「貝多羅樹(ばいたらじゅ)」などが植えられている


 <墓地>
 畠山家歴代のお墓
 久我大納言夫妻のお墓
 池田恒興の娘 浅野幸長夫人のお墓

 <貝多羅樹(ばいたらよう)>
 ヤシ科のオウギヤシ
 葉の裏に竹筆や鉄筆などで文字を書くと、跡が黒く残るため、古代インドでは写経のときの紙の代用にされた
 「貝多羅」は、梵語(サンスクリット語)で、「葉」の意味がある
 「葉書」の語源になったといわれる



【興臨院の寺宝】

 <椿尾長鳥堆朱盆(つばきおながどりついしゅぼん)(重要文化財)>
 中国元時代の長成の作
 刻名「張成造」がある

 <「後奈良院女房奉書」(重要文化財)>


【興臨院へのアクセス】

 市バス 大徳寺前 徒歩約5分

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