聞名寺(もんみょうじ)は、東山仁王門を上がったところにある寺院
平安時代に時康親王(ときやすしんのう)(後の光孝天皇)が、眼の病を患わったときに夢告を受けて、
仏師慈覚大師に仏像を作らせ祀り、眼病が平癒したという明眼地蔵が祀られている
寺院が立ち並ぶ新洞仏教会地区にあり、東端の東大路通の東側には二条通から仁王門通まで、妙傳寺・聞名寺・本妙寺と並ぶ
<本堂>
<地蔵堂>
境内に入ってすぐ右に建つ
<阿弥陀石仏>
本堂裏の墓地の入口付近に多くの無縁仏が並べられていて、その中央に阿弥陀石仏が祀られている
鎌倉時代後期のもの
像高156cmの花崗岩製
蓮華座の上に坐す定印の阿弥陀如来を厚肉彫りしたもので、二重輪光背を背負う
光背には、十一個の月輪があり、阿弥陀の種字「キーリク」を陽刻する
石像寺の阿弥陀石仏と同じ様式で、模造されたものといわれる
首が折れ、差し込むように頭部がはめこまれている
<七重石塔>
本堂前に立つ
高さ約3.5m
光孝天皇が祀られており、「光孝天皇塔」と称される
軸部は室町時代のもの
<墓地>
江戸時代後期から明治時代にかけて歌壇の主流となる桂園派の
主宰者 香川景樹(かがわかげき)ら香川一族の墓碑が並ぶ
<明眼地蔵(あけめじぞう)>
地蔵堂の本尊
洛陽第十七番地蔵尊
光孝天皇の眼病平癒の故事がある
明眼地蔵尊保存会によって保存・保護されている
<地蔵盆>
8月
明眼地蔵のお祭が行われる
<一つ火法要>
2009年(皇紀2669)平成21年12月6日
13年ぶりに念仏法要が復興される
<明眼地蔵の故事>
平安時代
時康親王(ときやすしんのう)(後の光孝天皇)が、眼の病を患い、医者も治療を諦めていたところ、
加茂の明神に眼病平癒の祈願を行うと、17日目の夜、夢の中に老翁が現れ、
「眼病を治したければ、地蔵菩薩を彫って守護仏としなさい」と告げられた
仏師 慈覚大師に仏像を作らせ祀ったところ、時康親王の眼の病はすっかり良くなり、
第58代天皇にご即位することができたといわれる
このことにより、眼病平癒のご利益があるといわれ「明眼地蔵」と称されるようになる
<香川景樹(かがわかげき)>
因幡国鳥取藩士の出身
1793年(皇紀2453)寛政5年
上洛し、歌人の小澤蘆庵や香川景柄(かがわかげとも)に和歌を学び、
歌壇二条派の宗家 香川家梅月堂(ばいげつどう)の養子となるが、後に離縁されて独立する
明治時代まで歌壇の主流となる桂園派を創始する
1803年(皇紀2463)享和3年
岡崎に移住し、自邸を「東塢亭(とううてい)」「桂園(かつらのその)」と称し、桂園派の拠点とした
1843年(皇紀2503)天保14年3月27日
木屋町通で亡くなり、聞名寺に埋葬された
1907年(皇紀2567)明治40年
正五位を追贈される