妙満寺(みょうまんじ)は、幡枝御所(円通寺)の東北、岩倉幡枝にある日蓮宗京都十六本山の一つの寺院
4月中旬〜5月上旬には、山門の前、庭園の池の畔に躑躅(ツツジ)が咲き誇る名所
<本坊>
<庫裡>
<雪の庭>
本坊の庭
「成就院 洛中雪月花三名園」の一つ
俳諧の祖 松永貞徳の作庭
比叡山を借景にした冠雪の眺望が最も美しく、「雪の庭」と称される
岩倉の地への遷堂のときに、塔頭 成就院より本坊に移築される
松永貞徳は、清水寺成就院に「月の庭」、北野成就院に「花の庭」(現存せず)を同時に作庭したといわれ、
それぞれの坊「成就院」にあったことから、「成就院 雪月花三名園」と称される
成就院の住職 日如が、貞徳の門下だった縁によりここにも作庭された
<鐘楼>
<仏舎利大塔>
ブッダガヤ型
インド ブッダガヤ大塔は、釈迦が悟りを開いた聖地に、アショーカ王が紀元前200年頃建てた供養塔で、
仏教最高の聖跡とされる
1973年(皇紀2633)昭和48年
「釈迦如来の精神に帰れ」という妙満寺の教えの象徴として、全国檀信徒の写経浄財によって建立される
ブッダガヤ大塔を模したものとして日本最初のもの
一階正面に、釈迦如来坐像が安置される
最上階に、古来より妙満寺に伝わる仏舎利が安置されている
豊田佐吉以来の豊田家の遺骨も安置されている
<仏足石>
<日汁大正師御霊廟>
「老いが身はいづくの 野辺に朽つるとも 心は須磨無堀川の水」
<日蓮の五輪塔>
<16世 日泰心了院日泰上人の碑>
<27世 日経常楽院日経上人の碑>
<呉服の老舗「千切屋(ちきりや)」一門のお墓>
<劇作家 花登匡のお墓 >
<俳優・タレント・映画監督の山城新伍のお墓>
<五条大橋橋脚>
天正年間(1573年〜1592年)の五条大橋の橋脚
<桜園>
藤右衛門桜
<「中川の井」の石標>
旧地の寺町二条の妙満寺境内に、京の名水の一つ「中川の井」があった
妙満寺の移転に伴い石標も現在の地に移された
<成就院>
<正行院>
<法光院>
<大慈院>
1月 1日 新歳国祷会
1月14日 新春初講
2月28日 御開山会、釈尊涅槃会、日蓮大聖人降誕会
3月21日 春季彼岸会
4月 8日 花まつり
5月13・14日 春季大法要、鐘供養
8月19日 盂蘭盆施餓鬼会
9月23日 秋季彼岸会、敬老会
10月12・13日 日蓮大聖人御会式
11月11日 七五三詣り
12月 9日 釈尊成道会
12月31日 除夜の鐘
<安珍(あんちん)・清姫(きよひめ)伝説の鐘>
平安時代中期
928年(皇紀1588)延長6年8月
奥州白河(福島県白河市)の修験者 安珍(あんちん)が、熊野へ参詣する途中に、
紀州 室郡真砂の庄司清次の屋敷に宿泊させてもらう
そのとき、庄司の娘 清姫(きよひめ)が、安珍に思いを寄せ、安珍は「熊野参詣の帰りに立ち寄る」と約束する
しかし、安珍が約束を守らず帰途についてしまったことを知った清姫は、激怒して安珍の後を追いかける
清姫は、怒りで日高川で蛇の姿となり、紀州 道成寺(どうじょうじ)の釣鐘の中に隠れている安珍を見つけ、
炎を吐いて鐘を真赤に焼き、安珍を黒焦にして死なせ、自らも日高川に身を投じた
南北朝時代
1359年(皇紀2019)正平14年/延文4年3月11日
道成寺で、源万寿丸の寄進により、鐘が再鋳され、鐘供養が行われる
そこに一人の白拍子が現われ、舞いが終わると鐘が落下し、白拍子は蛇の姿に変わり日高川へと姿を消した
その後、鐘の音が鈍くなり、悪病災厄などが相次いで起こり、清姫のたたりと恐れられたことから、鐘を山林の中に埋められる
安土桃山時代
1585年(皇紀2245)天正13年
豊臣秀吉の根来攻めの時
大将 仙石権兵衛が、この鐘を掘り起こし、合戦の時に合図に使う陣鐘として使い、そのまま京都に持ち帰る
妙満寺 貫首日殷大僧正が、法華経による供養を行い、怨念を解かれた鐘は鳴音も美しくなり、
霊鐘となったといわれる
<娘道成寺>
歌舞伎、能楽、長唄などで、「鐘に恨みは数々ござる」と紀州道成寺の霊話が取り入れられた題目になる
「道成寺」を演じる芸能関係者は、妙満寺に参詣して、舞台の無事が祈願されている
紀州 道成寺は、奈良時代の701年(皇紀1361)大宝元年の創建
<経巻相承・直受法水(きょうがんそうじょう・じきじゅほっすい)>
日什大正師は、「書物のために仏の教えが誤解されてはならない」と、書物は残さず
釈迦如来より日蓮聖人に受け継がれた正しい教えを、自分の意見をはさまず素直に受けるようにと戒められた
<俳諧発祥の地>
松尾芭蕉の師であり、俳諧の祖 松永貞徳により、初の俳諧興行「雪の会」が催された
これにより、連歌から独立した文芸が確立されたといわれる