成相寺(なりあいじ)は、京都府宮津市にある日本三景のひとつ天橋立が一望できる寺院
雪舟の「天橋立図(国宝)」にも描かれている
天橋立が一望できる成相山(569m)の山腹にある
創建時には、さらに上方にあったといわれる
山門から本堂までは約300mある
<山門>
入母屋造単層の八脚門
<本堂(京都府指定文化財)>
入母屋造で、正面は千鳥破風で飾られている
中央の厨子内に、本尊秘仏の聖観音菩薩像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、
右に千手観音菩薩立像が安置されている
1774年(皇紀2434)安永3年の再建
<五重塔>
本堂までの参道左側の広場の上に建てられている
1998年(皇紀2658)平成10年の創建
鎌倉時代の建築様式を再現されている
<鐘楼(京都府指定文化財)>
本堂までの石段を少し上がったところの右側に建っている
江戸時代の創建
<梵鐘(宮津市指定文化財)>
1609年(皇紀2269)慶長14年
「撞かずの鐘(つかずのかね)」の故事が残る
<鎮守堂(京都府指定文化財)>
江戸時代の建立
<十王堂>
孔雀明王・閻魔大王・賓頭盧尊者が安置されている
<西国順礼堂>
西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られている
このお堂で参拝すると、西国三十三所観音霊場巡礼と同じ功徳・ご利益があるといわれる
<一願一言地蔵(ひとことのじぞう)>
本堂までの石段の下、左側に安置されている
一つだけ一言でお願いすれば、どんなことでも必ず叶えてくれるといわれる
安楽ポックリの往生も叶えられるといわれる
室町時代初期のものといわれる
<鉄湯船(てつゆぶね)(重要文化財)>
本堂の前の西南側に置かれている鉄製の円筒形の水槽
かつて成相寺の湯屋で、湯船として用いられていたものといわれている
これに直接入るものではなく、沸かした湯をこれに入れ、かかり湯をするために用いられたものといわれる
薬湯を沸かし、怪我や病気の人を治療するためにも用いられたといわれる
天橋立 智恩寺・東大寺のものと合わせ、日本三大鉄湯船といわれる
1290年(皇紀1950)正応3年の銘
鋳物師 山河貞清によって作られたもの
<名水>
鉄湯船に付けられた金属製の龍の飾りの口から流れ出ている水
創建当初の本堂のあった場所から湧き出ているものをここまで引いてきているといわれる
<底無の池>
五重塔の北側の池
左甚五郎が彫刻した真向の龍のモデルになった龍が棲んでいるといわれる
<熊野権現社>
成相寺に現存する最古の建築物
保存のために、社殿の周りを小屋が覆っている
1676年(皇紀2336)延宝4年9月8日の上棟
<弁財天堂>
底無の池に建っている
<展望所>
五重塔の西側
天橋立を一望できる
<タブノキ(京都府指定天然記念物)>
<逆スギ(宮津市指定天然記念物)>
<石楠花の木>
本堂の下、撞かずの鐘の西側には石楠花の木が多数植えられている
<聖観世音菩薩(しょうかんのんぼさつ)>
本尊
本堂の厨子の中に安置されている33年に一度、開扉される秘仏
開山 真応上人が老人からもらったものといわれる
「御伽草子梵天国」によると、「美人観音」とも称され、美人になれる観音菩薩として信仰されている
2005年(皇紀2665)平成17年に開扉されている
2008年(皇紀2668)平成20年9月6日〜11月30日、2009年(皇紀2669)平成21年4月5日〜5月30日
西国三十三所観音霊場の中興の祖とされる花山法皇の一千年忌を記念して開帳された
<真向の龍(まむきのりゅう)>
本堂内陣の右側頭上にある彫刻
左甚五郎の作といわれる
<木造 地蔵菩薩坐像(重要文化財)>
本堂に安置されている
平安時代のもの
昭和時代末頃に、近畿地方の寺院から移されたものといわれる
<絹本著色 紅玻璃阿弥陀像1幅(重要文化財)>
鎌倉時代のもの
<丹波国諸庄郷保総田数帳目録(重要文化財)>
<孔雀文磬1面(京都府指定文化財)>
1413年(皇紀2073)応永20年のもの
<成相寺文書・制礼6通4枚(附・成相古記1冊)(京都府指定文化財)>
<法華経(平登子三十三回忌供養経)7巻(附・経箱1合)(京都府指定文化財)>
1394年(皇紀2054)応永元年のもの
<成相寺参詣曼荼羅1幅(京都府指定文化財)>
室町時代のもの
<金銅装笈1背(京都府登録文化財)>
室町時代のもの
<酒徳利と杯>
源頼光らが、酒呑童子を退治するために飲ませた神便鬼毒酒に用いたとされる酒徳利と杯が所蔵されている
<撞かずの鐘(つかずのかね)(宮津市指定文化財)>
1609年(皇紀2269)慶長14年
山主 賢長が、新しい鐘を鋳造するため浄財の寄進を募ったとき、寄付を断った富豪の家の嫁と子供が、
鐘の鋳造の日、大勢の見物人の中で、誤って子供を銅湯の坩堝(るつぼ)に落としてしまった
その鐘を撞くと、子供の泣き声や母親を呼ぶ悲しい声が聞こえてきた
それ以来、子供の成仏を願ってこの鐘を撞くことがされなくなった
<身代わり観世音菩薩>
真応上人が、成相山で修験の修行をしていた冬のある日、大雪が続き、食べ物がなくなり
餓死寸前となったところに一頭の傷ついた鹿が現れた
真応上人は、命には代えられず、その鹿の肉を煮て食べた
ところが、鹿の肉だと思ったのは、本尊 観世音菩薩の腿の木片であることに気付き、
本尊が身代わりになり飢えを助けてくれたという
真応上人が、その木片を観世音菩薩の腿につけると像は元通りになったといわれる
このことにより「成相寺」の寺名の由来とされている
<美人観音の故事>
「御伽草子梵天国」によると
五条の右大臣 高藤の孫 玉若君は、観音析願により授かった子として大変可愛がられ、
2歳の時には、四位の侍従の位を得て、丹後但馬の国を与えられ、その後、中納言となる
小さい時から笛を上手に吹いておられ、13歳のときに両親を亡くし、一週間、笛を吹いて供養をしていた
その笛の音を聞いた梵天国の王(仏教の主護神)に「吾が姫を嫁に差上げよう」といわれ、
大変美しく心の優しい姫君を妻に迎え入れた
その話を聞かれた天皇が羨まれて「おまえの妻を内裏に参らせよ。それが出来ねば…」と
無理難題を命じられるが、二人で力を合わせ解決してきた
最後には、「梵天国王直々の御判が欲しい」と言われる
中納言は、義父の梵天国を訪ねていき、食事をしているときに、
そばで人でも鬼でもない飢えた骸骨のような者が食べ物を求めてきた
慈悲深い中納言が、哀れに思い御飯を与えたところ、一粒千人力というお米を食べたその者は、
羅刹国のはくもん王(悪鬼)の姿に戻り、鎖を切って大空へ飛んで行ってしまう
そして、はくもん王は、中納言の妻を奪い羅刹国へ連れ帰っていく
中納言は、天皇のための御判をもらって帰ったが、妻のいない世に無常を感じ、
断髪をして出家して、妻を助けられる様祈願を行い救出に羅刹国へ向かう
中納言は、無事に妻を救い出し、都へ帰ってきたが、都の生活を嫌い丹後へ下られる
そして、中納言は久世戸の文珠となり、妻は成相の観音菩薩となられたといわれる
<天橋立図(国宝)>
かつて成相寺の山号は「世野山」と称されていた
雪舟の「天橋立図(国宝)」には、「世野山 成相寺」と記されて成相寺が描かれている
<土器盃投げ(かわらけなげ)>
展望所から、17日間、祈願された新鮮無垢の土器盃(かわらけ)に自分の思いを込めて投げる
病気・災難・不幸・ノイローゼ・悪い思い出・悪い因縁などを投げ捨て、心機一転、
新しい精神生活を踏む出すことができるといわれる