那須野与市堂(なすのよいちどう)(NasunoyoichiDou)

所在地:亀岡市下矢田町東法楽寺   卍ちず丸地図情報卍

無宗派の寺院

山号:法楽山

本尊:阿弥陀如来

開基:安倍晴明

開山:不明

通称:那須与市堂

ご利益:病気平癒

 那須野与市堂(なすのよいちどう)は、亀岡市市街地南部の下矢田町の法楽寺山の麓にある寺院

 国道9号を下矢田町の交差点より府道6号線に入り、南へ向かうと田園地帯右手に小高い法楽寺山がある

 丘一帯は那須野公園になっており、法楽寺山の頂上に小堂の那須野与市堂、那須与市堂、与市堂が建てられている

 陰陽師 安倍晴明、武士 那須与一ゆかりの地とされる

【那須野与市堂の歴史・経緯】

 創建は不詳

 平安時代中期  960年(皇紀1620)天徳4年頃
 陰陽師 安倍晴明は、丹波桑田郡の安行山(那須野与市堂の北西の西山)において天文学を大成する
 朱雀天皇村上天皇円融天皇の信任を得て、従四位下に叙せられ、天文博士の号を賜る
 安倍晴明は、阿弥陀如来のご利益徳によるものとし、安行山の山麓に法楽寺(宝楽寺)を建立して、
 恵心僧都 源信の作という阿弥陀如来像を祀り信仰したといわれる

 1184(寿永3年)  源平合戦が激しくなり、平家が都から西に逃れ一の谷に布陣していた
 源頼朝の命により、源頼朝山陽道源義経山陰道より丹波路に入り、那須与市も、源義経に従う
 那須与市が、亀岡の地を通るときに急病になり動けなくなり、法楽寺の阿弥陀如来の霊験を聞き参拝して祈願したところ平癒した
 その後、那須与市は、源義経の軍の後を追い、屋島の戦い・一の谷の戦いで活躍し武勲をあげる

 1185年(皇紀1845)文治元年
 那須与市は、平氏を破り凱旋した後、法楽寺を改修して再興したといわれる

 江戸時代中期
 1716年(皇紀2376)享保元年、堂宇が火災で焼失する

 その後、再建される

 1893年(皇紀2553)明治26年
 柳町中村などの寄進により、現在の地に堂宇が再建され、火災で焼けた仏像が祀られ「那須野与市堂」と称される

 1959年(皇紀2619)昭和34年
 堂宇の一部が拡充され、整備が行われる


【那須野与市堂の伽藍】

 法楽寺山の頂上にある

 <本堂>
 扁額「法楽山」が架かる

 <那須与市供養塔>

 <石碑「那須公園」>

【那須野与市堂の寺宝】

 <黒焦げの阿弥陀如来像
 本尊
 960年(皇紀1620)天徳4年頃の恵心僧都 源信の作といわれる
 江戸時代中期、1716年(皇紀2376)享保元年の火災のときにお堂が全焼し、
住民達が駆けつけたとき、焼け落ちた御堂の跡に、まばゆい金色の光に輝く阿弥陀如来像が立っておられたといわれる
 その後、専念寺(塩屋町)に遷されて保存されていたといわれる
 1893年(皇紀2553)明治26年に、「那須野与市堂」として再建されたときに戻される
 現在は炭化した状態で本堂に安置されている
 延命長寿、老病平癒、屎尿のご利益があるといわれる

 <不動明王

 <弘法大師画像>

【那須野与市堂の祭事】

 <彼岸>
 春分の日・秋分の日
 那須与市の供養が行われる

【その他】

 <那須与一>
 平安時代から鎌倉時代前期の武士
 下野国那須の資隆(資高)の11男とされる
 宗高、宗隆、余一、与市とも称される
 弓矢に優れていた
 1185年(皇紀1845)文治元年
 源平合戦の屋島の戦いで、海上に浮かぶ平家の船に立てられた扇の的を馬上から一矢で射とめ敵味方から喝采をあびたといわれる
 即成院にお墓がある

【那須野与市堂へのアクセス】

 JR山陰本線(嵯峨野線) 亀岡駅からバス 矢田口 下車徒歩約13分

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