霊雲院(れいうんいん)は、JR嵯峨野線 花園駅の北にある臨済宗 大本山 妙心寺の塔頭
妙心寺境内の西側の中程、大方丈の西、聖澤院・黄鐘調鐘楼の北隣にある
妙心寺の塔頭の中でも寺格が高く、妙心寺四派のうち霊雲派の本庵
<書院(重要文化財)>
三間四面、一重、切妻造、柿葺
手前から四畳半床附、五畳半棚附、その奥に三畳の間がある
後奈良天皇が、たびたび行幸されたといわれ、天皇の御座所「御幸の間」がある
大休宗休禅師退隠後、60年間ほど扉が閉じられていた
銀閣寺東求堂内の同仁斎とともに、東山時代の小さい書院の代表的な遺構とされる
狩野元信の障壁画がある
中央に帳台構、左に1畳、隅に違棚、上の欄間により別室様になっている
妙喜庵」は、この書院を写したともいわれる
1532年(皇紀2192)天文元年頃の建立
匠人 龍安により建立されたといわれる
1988年(皇紀2648)昭和63年
書院 奥の間御座所の三方壁に、日本画家 黒光茂樹により、新たに二羽の鶴・紅白梅・若松の障壁画が描かれる
以前は、鳳凰・竹笹・桐が描かれていた
<霊雲院庭園(国の史跡、名勝)>
書院の南の庭園
縮小蓬莱枯山水庭園
10坪ほどの狭い敷地に、枯滝と東に蓬来山水(鶴の石組)を兼ねた20個ほどの石組がある
室町時代
相国寺慈雲庵の子建西堂(しけんさいどう)の作庭といわれる
<方丈>
黄色で5本の白線が入った築地塀で囲まれている
唐門がある
「円満本光国師木像(大休宗休)」「特芳禅傑禅師木像」が安置されている
1543年(皇紀2203)天文12年
栂尾の閼伽井房(あかいぼう)(十無尽院)を移築したもの
1693年(皇紀2353)元禄6年
大休宗休禅師150年遠忌のときに、現在の方丈が再建される
方丈南庭は、全面が苔で覆われ、東側に赤松、西側に樹齢300年といわれる五葉松が植えられている
<墓地>
哲学者 西田幾多郎のお墓がある
<石碑「西田幾多郎先生墓」>
門前に立つ
<紙本水墨淡彩「山水花鳥図」(重要文化財)>
かつての書院の障壁画
狩野元信が、晩年の68歳頃に大休宗休禅師に参禅したとき余暇に描いたといわれる
真・行・草の画体で、花鳥・山水・人物が描き分けられている
このため、霊雲院は「元信寺」とも称された
現在は、掛幅装にされ49幅ある
<後奈良天皇宸翰円満本光国師号勅書(重要文化財)>
<後奈良天皇像>
方丈に安置されている
<円満本光国師木像(大休宗休)>
方丈に安置されている
<特芳禅傑禅師木像>
方丈に安置されている
<特芳禅傑筆「大休宗休への印状」>
<特芳禅傑筆「大休号」>
<特芳禅傑筆「偈頌(げじゅ)」>
<霊雲院国際禅交流友好協会(IZEFA:International Zen Exchange Friendship Association)>
事務局が霊雲院に置かれている
「世界の諸宗教との親睦と相互理解」を提唱している
<四派四本庵(しはしほんあん)>
妙心寺の3,500ほどの末寺が必ず属する4つの宗派
室町時代、塔頭の龍泉庵、東海庵、聖澤院、霊雲院が創建される
妙心寺第9世 雪江宗深の法嗣から、四派の景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖澤派)が出る
これにより、四派四本庵による運営体制が確立し、この四派により、妙心寺一山の全権が掌握され、住持も決定された
雪江宗深は、この4人を評価して「禅は景川、徳(福)は悟渓、寿(頌)は特芳、才は東陽」とした
霊雲院は、特芳禅傑(とくほうぜんけつ)の霊雲派(れいうんは)の本庵とされる