林光院(りんこういん)は、相国寺の塔頭の一つで、南東の喜多川通の門から入った南側、光源院の北東にある
庭園に名梅「鶯宿梅」があり、境外墓地に薩藩戦死者墓がある
<方丈>
大正時代
現在の建物が、滋賀県西大路村にあった仁正寺藩 市橋家の藩邸(安政年間(1854年〜1860年)の建立)が移築される
<庫裏>
<鶯宿梅(おうしゅくばい)>
庭園に育つ名梅
花には36枚もの花弁があり、つぼみの間は真紅で、開花と共に淡紅に変わり、最後に純白に変わっていく
「大鏡」によると
天暦年間(947年〜957年)
御所清涼殿前の梅の木が枯れ、西の京の紀貫之の娘の屋敷の梅が代わりの梅に選ばれ、勅命により御所に移植された
村上天皇が、その梅の枝に
「勅なればいともかしこし鶯の 宿はととはばいかがこたえん」(拾遺和歌集)
と、娘が別れを惜しんだ歌が書かれた短冊を見て、その詩情を憐れみ、この梅をもとの庭に返されたといわれる
その後、この梅を「鶯宿梅」「軒の紅梅」と称された
紀貫之屋敷跡に林光院が創建され、その後、何度か移転しているが、かつ、鶯宿梅も接ぎ木などによる代替りなどを繰り返し、
現在も咲き誇る
鶯宿梅を詠まれた歌
「うぐいすの 春待ち宿の梅がえを おくるこころは 花にぞ有る哉」(島津家久:林光院のきいしゃ)
「わが宿にうえんも梅のみにあわぬ 名高き花の根さしおもえば」(長淵籐五郎)
煎茶道の師匠 売茶翁 高遊外は、林光院を兼務した大大典禅師と親交があり、
一時、林光院に寄寓して、この梅の実を梅干にして愛蔵し、雅客文人に贈ったといわれる
富岡鉄斎は、扇面に鶯宿梅を描き、梅の花をつんで糸で縫い付けた掛軸が残されている
<薩藩戦死者墓>
相国寺東門から約40m東にある境外墓地
蛤御門の変(禁門の変)と鳥羽・伏見の戦いで戦死した72名の薩摩藩藩士が合葬されている
左側には、大正時代建立の戦没者合同碑もある
大儒教家 藤原惺窩(ふじわらせいか)のお墓もある
京都には、東福寺塔頭 即宗院内に「薩摩藩士東征戦没の碑」と、伏見区 大黒寺に「薩摩藩九烈士墓」もある
<薩摩藩との関係>
1600年(皇紀2260)慶長5年 関ヶ原の戦い
島津義弘が両陣営の中央を突破し伊賀に隠れたとき、親交の深かった大阪の豪商 田辺屋 今井道與が潜伏先に急行し、
危険きわまる中、堺港より乗船させ、海路を護送して無事に薩摩に帰国させた
この功績により、薩摩藩秘伝の調薬方法を伝授され、現在の田辺製薬の由来となる
その後、二人とも高齢になり、島津義弘は、自ら僧形の像を造り今井道與に送る
今井道與は、その像を、住吉神社内に松齢院を建立して祀る
その後、松齢院が荒廃したため、今井道與の孫の乾崖梵竺が林光院五世住職となり、
島津義弘の像と位牌を林光院に移し、島津家により遷座供養が行われた