頂法寺(ちょうぼうじ)は、本堂が六角宝形造(ろっかくほうぎょうつくり)であることから「六角堂」と称される寺院
平安時代より、庶民の信仰を集めていた
革堂(行願寺)が上京の町堂であり、六角堂は、下京の町堂として親しまれ、町衆の生活文化や自治活動の
中核となる役割を果たしていた
観音霊場の札所としても庶民の信仰を集め、門前町が発展し、洛中では有数の旅宿町として発展した
本堂の前にある「へそ石」は、京都の中心を表すといわれている
代々、池坊(いけのぼう)の宗家(華道宗家)が、六角堂の住職を兼ねる
江戸時代末までに、20回ほど焼失などしたが、庶民の信仰を集める町堂として、その都度、再建されてきた
「京都御役所向大概覚書」によると、
朱印寺領1石と記されており、寺内に多聞院、不動院、住心院、愛染院などがあったが現存しない
<本堂(京都市指定有形文化財)>
六角宝形造(ろっかくほうぎょうつくり)
本尊は、秘仏で、聖徳太子の持仏といわれる如意輪観音菩薩
厨子の前に御前立が安置されている
脇侍は、毘沙門天立像(重要文化財)と地蔵菩薩立像
聖徳太子像も安置されている
本堂の前には大香炉があり、邪鬼が支えている
1877年(皇紀2537)明治10年
現在の建物が再建される
2019年(皇紀2679)平成31年3月
本堂、拝堂が京都市指定有形文化財に指定される
<太子堂(開山堂)>
境内の東北の池の隅に立つ
聖徳太子の2歳の頃の合掌して「南無仏」と唱える像と、
父親 用明天皇の病気平癒を祈る16歳像、仏教の受容をめぐって物部守屋と戦った姿を表す騎馬像が安置されている
<親鸞堂>
本堂の東にある
1201年(皇紀1861)建仁元年
親鸞聖人が29歳のとき、毎夜、比叡山を下りて、六角堂に百日参籠され、夢中に四句を授かり浄土真宗を開かれたといわれる
六角堂に籠もって夢のお告げを聞いておられる姿の「夢想之像」と、
草鞋を履いて比叡山から六角堂を参拝する姿を自刻されたといわれる「草鞋の御影」が安置されている
<石不動堂>
不動明王堂と隣接している
大日如来が一切の悪魔を降伏させるために身を変じた不動明王の石像が祀られている
怒りの形相で、強い法力を持っているといわれる
「都名所図会」(1780年(皇紀2440)安永9年刊行)に描かれている
<不動明王堂>
石不動堂と隣接している
木造の不動明王が祀られている
<唐崎社>
境内の南東隅に建っている
六角堂の鎮守社
祭神の唐崎明神は、「唐崎の松」が立つ琵琶湖畔の唐崎神社(滋賀県大津市)の神さんで、比叡山とも深い関係がある
かつては「明星天子菩薩」とも称されていた
祇園社(八坂神社)と天満宮(北野天満宮)の祭神が合祀されている
<鐘楼(京都市指定有形文化財)>
山門の外、六角通を隔てた飛地境内に建っている
戦国時代に、京都で戦乱が起こりそうになると六角堂の鐘がつかれたといわれる
鐘は第二次世界大戦時の金属供出で失われる
1954年(皇紀2614)昭和29年
鐘が再鋳された
<要石(かなめいし)>
本堂の東側にある、中央に丸い穴があいた六角形の石
旧本堂の礎石といわれ、「本堂古跡の石」とも称される
「へそ石」と称され京の中心地であるといわれる
明治時代初期
門前の六角通にあったものを境内に移されている
<六角柳>
本堂の横にある柳の木
枝が地面すれすれまで伸びる姿から「地ずり柳」とも称される
平安時代初期、嵯峨天皇が妃を探していたとき、夢枕に六角堂の如意輪観音菩薩像が現れ、
「六角堂の柳の下を見てみなさい」とのお告げを受けたため、人を遣わしてみると、
柳の下に美しい女性が立っており妃として迎えたといわれる
このことから「縁結びの柳」とも称される
<御幸桜(みゆきざくら)>
早咲きの桜
996年(皇紀1656)長徳2年
花山法皇が行幸され、西国三十三所観音霊場巡礼が始まったことで、花山院 前内大臣(さきのないだいじん)がこの桜を見て
「世をいのる 春の始めの法(のり)なれば 君か御幸(みゆき)の あとはありけり」と詠まれ、名付けられた
<聖徳太子沐浴(もくよく)の古跡>
太子堂の西側、池の中にある石でできた井筒
聖徳太子が池に入り、身を清めたといわれる
池のほとり(現在の池坊会館のところ)に僧侶の住坊が建てられ「池坊」と称されるようになった
<一言願い地蔵>
少し首を傾けたお地蔵さん
悩んでおられるえわけではなく、参拝者の願いを叶えてあげようか、どうしようかと考えておられるといわれる
<十六羅漢>
「和顔(わげん)愛語(あいご)」を実践し、いつもニコニコしている羅漢
いつも優しい顔つきで、穏やかに話をするように心がけてさえいれば、必ず良い報いがあるという教えによる
<合掌地蔵>
参拝者の願いを手のひらに包み込んで、その願いが叶うように一緒にお祈りをされている姿
手を合わせ、その手に願いをささやきながら吹き込んで祈願する
<北向地蔵尊>
池坊会館入口付近にある
内裏(御所)を守護されるために、北を向いておられる
御所を守護されることは、人々の生活を守ることにつながるといわれる
<わらべ地蔵>
池坊会館入口付近にある
小さな子供を守護される
寝たり、立ったりしている姿は、それぞれ修行をされ禅定の姿で守護されている
<地蔵山>
池坊会館入口付近にあるお地蔵さんの群像
<池坊専応口伝>
生け花発祥の地のモニュメント
池坊専応が、弟子に授けた花伝書「大巻伝(おおまきでん)」の冒頭の部分が刻まれている
「瓶に美しい花を挿すこと」と、池坊が伝える「よろしき面影をもととする」ことの違いが述べられている
<三十二世池坊専好の立花復元モニュメント>
池坊のいけばなには、立花・生花・自由花という3つの花形があり、
そのうち最も古い立花を大成したのが、江戸時代初期に活躍した三十二世池坊専好
後水尾天皇が池坊専好を重用し、御所 紫宸殿で立花会がたびたび催された
その池坊専好の立花の復元モニュメントが飾られている
<恵信尼文書(えしんにもんじょ)の碑>
「殿が比叡山をおりられ、六角堂に百日の間おこもりになり、後世のたすかるように祈念あそばしましたら、
九十五日目の明け方、夢の中で、聖徳太子が偈文(げもん)をとなえ終わられて、菩提(ぼだい)の道をお示しくださいましたので、
すぐに夜明けに六角堂をお出ましになり、後世のたすかるご法縁にあわせていただこうと、
お訪ねになって、法然上人にお会いになった。」
<如意輪観音菩薩像>
秘仏の本尊
聖徳太子の持仏といわれる
<木造 毘沙門天立像(重要文化財)>
平安時代後期の作
像高102cm
<聖徳太子像>
本堂に安置されている
<いけばなの根源 華道家元池坊(いけのぼう)>
池坊は、華道家元、いけばなの根源とされる
頂法寺の本坊にあたる池坊(いけのぼう)が代々の住持となっている
「池坊」の名前は、「聖徳太子が水浴したという池(井戸)」のほとりに住まいがあったことにちなんで名付けられたといわれる
室町時代
文明年間(1469〜1486年)
池坊の僧が、本尊の如意輪観音菩薩に花を供えることとなっており、池坊12世 池坊専慶が、花の生け方に特徴的に
優れた手腕を持ち、立花の名手となり、以後、立花が池坊の家業となる
<華道発祥の地>
本堂に表札が掛かっている
「いけばな発祥の地」のモニュメントもおかれている
江戸時代
下京の町堂として親しまれ、町衆の生活文化や自治活動の中核となる役割を果たし
祇園祭の山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が、六角堂で行われていた
現在のくじ取り式は、京都市役所で行われている
「わが思ふ 心のうちは むつのかど ただまろかれと 祈るなりけり」
「六の角(むつのかど)」とは、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって生ずる六欲のこと
「六根清浄の祈願」とは、六根を捨て去って角を無くし、円満になることを願う