瑠璃光院(るりこういん)は、比叡山の麓、八瀬の高野川(大原川、八瀬川)沿いにある寺院
実業家・政治家の田中源太郎の別荘から、料亭になり、寺院に改められた
春は新緑(青もみじ)、秋は「もみじの滝」といわれる紅葉の名所になっている
境内は、12000坪の広大な寺域がある
<山門>
高野川の吊り橋を渡ったところにある
<書院>
数寄屋造
京数奇屋大工棟梁の中村外二(なかむらそとじ)による建築
2階からは、八瀬の遠望ができる
<仏堂>
<八瀬のかまぶろ>
丸い形をした日本式蒸し風呂の原型とされる
白鳳年間(672年〜686年)
壬申の乱で、背中に流矢を背に受けて傷を負った大海人皇子(後の天武天皇)が、この地の「かま風呂」で傷を癒したといわれ
八瀬という地域が「矢背」「癒背」とも記されていた由来
平安時代には貴族の保養地になった
江戸時代には十数基はあったといわれる
外見も炭焼窯に似た形で、窯の中は六畳敷ぐらいの円形になっている
窯の中で十数時間焚き、内部の土全体が充分にされると焚火を出して、窯内上下の煤や焚きがらを清掃して床面に荒筵を敷き、
床の上下に塩水を撤布し、その蒸気の中に入った
<下屋敷>
三条実美ゆかりの茶室「喜鶴亭」がある
千家第六代覚々斉原叟好みといわれる
三条実美の直筆の命名額がある
<庭園>
3面ある
比叡山の麓の自然の傾斜地をそのままに利用している
14代 佐野藤右衛門(さのとおえもん)の作庭といわれる
数十種類の楓が植えられており、黄・橙・桃・紅色に変化するといわれる
苔も十数種類あるといわれる
「万葉の花」といわれる馬酔木(あせび)が500株ほど自生しており、樹齢100年以上のものも多い
山桜も植えられている
「山露路の庭(やまろじのにわ)」
山門から玄関までの庭
石段の参道と池・石組・樹木による
「瑠璃の庭(るりのにわ)」
書院前の主庭
苔と白砂・石組・遣水・植栽によって構成されている
苔の一種が光の加減で輝き、「瑠璃色に輝く浄土の世界が現れる」として名付けられたという
「瑠璃」とは、仏教語で「浄土世界」を意味する
奥に置かれた大きな岩から比叡山の伏流水が、細く緩やかな曲線を描く遣水により、手前左手に流れてくる
その流れに沿うように、細く白い小径が付けられている
「臥龍の庭(がりょうのにわ)」
下屋敷の茶室「喜鶴亭」前庭
自然の地勢と石組・水の流れ・建物により、昇雲の龍身が表されているといわれる
<阿弥陀如来像>
本尊
人々の所業を救うため左足を差し出したといわれる像
<聖衆来迎図>
室町時代
<阿弥陀三尊来迎図>
室町時代
<草花屏風>
江戸時代
<洛中洛外図屏風>
江戸時代
<「山岳風景図」>
富岡鉄斎の筆
<書「産業立国」>
政治家 犬養毅の書
<八瀬の窯風呂(かまぶろ)>
日本式蒸し風呂の原型で、日本のサウナの元祖といわれる
窯の中で、青松葉・生木などを焚いて、摂氏45度前後に一度暖め、次に灰を取って、塩水にひたした筵(むしろ)を敷き、
その上に寝て体を温める
672年(皇紀1332)天智天皇10年の壬申の乱で、背中に矢傷を負った大海人皇子(後の天武天皇)がこの地に逃れたときに
傷を癒したといわれる
このことから、この地を「矢背(やせ)」と称されるようになったといわれる
千利休も利用したといわれる
<田中源太郎>
1853年(皇紀2513)嘉永6年-1922年(皇紀2582)大正11年
京都府旧桑田郡亀山(現在の亀岡市)の亀山藩御用商人の家に生まれる
実業家として、京都銀行の前身「亀岡銀行」、京都証券取引所の前身「京都株式取引所」、
関西電力・京福電鉄などの前身「京都電燈株式会社」、国鉄山陰線の前身「京都鉄道株式会社」など数多くの事業に関わった
政治家としては、京都府議会議員、衆議院議員、貴族院議員などを歴任する
生家は、ホテル「楽々荘」(亀岡市)(国登録有形文化財)として現存している