龍泉庵(りょうせんあん)は、花園の妙心寺の境内の南門付近にある妙心寺の塔頭
塔頭の中でも寺格の高い妙心寺四派四本庵の一つ
妙心寺の創建当時から立てられ、塔頭の方丈としては最大級の規模を持つ
開山 景川禅師の跡を継いだ景堂玄(けいどうげんたつ)により、微笑庵の建物を移して整備されたといわれる
<表門>
一間一戸、薬医門、切妻造、本瓦葺
1664年(皇紀2324)寛文4年の建立
<玄関>
入母屋造、軒唐破風付
<方丈(客殿)>
山内最大の建物
南面し、六間取方丈形式、桁行25.99m、梁行14.9m、入母屋造
中央の室中(桁行4間、梁行3間半)、その奥に仏間、室中左右に脇室、それぞれの側面に入側縁、正面に広縁を廻している
昭堂形式の仏間、中央の亨堂(きょうどう)に開山を安置する
両脇に仏壇がある
南面の三室は折り上げ天井を共有し、室境に竹の節欄間がある
1848年(皇紀2508)嘉永元年の建立
<方丈南庭>
白砂に苔、七五三の石が組まれている枯山水庭園
梅・楓の植栽があり、塀外の樹林も借景になっている
<書院>
桁行13.8m、梁行7m、入母屋造、妻入、桟瓦葺
6室あり、東北の主座敷に床と棚、付書院、露地庭がある
1653年(皇紀2313)承応2年の建立
<庫裡>
桁行13m、梁行19.1m、切妻造、妻入、本瓦葺
1796年(皇紀2456)寛政8年の建立
<鐘楼>
1間1間、袴腰、切妻造、本瓦葺
寛永年間(1624年〜1644年)の建立
<花園太上法皇仙洞之遺蹟の石標>
<方丈障壁画>
1999年(皇紀2659)平成11年
開祖五百年遠諱にあわせて京都市生まれの日本画家 由里本出(ゆりもといずる)により100面におよぶ障壁画が描かれた
<種々東漸之間>
種々東漸図(しゅじゅとうぜんず)
越前海岸を描き、仏教が西から東へ伝来する様を表わされている
<霊峰四季之間>
<水到渠成之間>
<樹下寂静之間>
<黎明開悟之間>
<紙本墨画 枯木猿猴図(こぼくえんこうず)(重要文化財)>
長谷川等伯の筆
かつては六曲一双あり、後に、掛幅に改装された
傾斜した松の枝に親子の手長猿がぶら下がっており、父猿は斜めの枝に片手だけを預け「腕切りの猿(腕切猿)」と称される
加賀藩主 前田利長の遺愛といわれ、枕子屏風として寝室に飾られていた
だが、夜な夜な睡眠中に、猿が手を伸ばし、利永の髪を掴もうと眠りを妨げたといわれ、
このため、利長は猿の手を斬り落としたといわれる
大徳寺龍源院の牧谿の筆「猿猴図(国宝)」の影響を受けたといわれる作品
京都国立博物館へ寄託
<観音・龍虎図>
狩野探幽の筆
<古木猿猴図(こぼくえんこうず)(重要文化財)>
方丈襖絵
長谷川等伯の代表的作品
<「禅は景川」>
「後御堂法坂 雪霜十六年(うしろみどうほうさか ゆきしもじゅうろくねん)」と、開祖 景川禅師の修行ぶりが伝えられている
法坂は、妙心寺開山堂の東 龍安寺に向かって登る道があり、その途中に地蔵堂があり「後御堂」と称されていた
景川禅師は、その道のりを16年の間、雪の日も霜の日も龍安寺の師匠のもとへ通われたといい、
「禅は景川」と称賛される
妙心寺10世 景川宗隆(けいせんそうりゅう)は、室町時代、伊勢に生まれた臨済宗の僧
雲谷玄祥(うんこくげんしょう)、義天玄詔(ぎてんげんしょう)、桃隠玄朔(とういんげんさく)らに師事した
伊勢 大樹寺の桃隠、龍安寺の雪江宗深(せっこうそうしん)の法を嗣ぐ
大徳寺、妙心寺、龍安寺、犬山 瑞泉寺、丹波 竜興寺の住持を歴任し
大和 興雲寺、伊勢 瑞応寺、妙心寺大心院を開山する
大心院で亡くなる
<四派四本庵(しはしほんあん)>
室町時代、塔頭の龍泉庵、東海庵、聖澤院、霊雲院が創建される
雪江宗深の法嗣から、四派の景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖澤派)が出る
これにより、四派四本庵による運営体制が確立し、この四派により、一山の全権が掌握され、住持も決定された
雪江宗深は、この4人を評価して「禅は景川、徳(福)は悟渓、寿(頌)は特芳、才は東陽」とした