両足院(りょうそくいん)は、建仁寺の境内東側にある塔頭の一つ
建仁寺開山 栄西禅師の法脈 黄龍派(おうりょうは)を受け継ぎ、「五山文学」の最高峰の寺院として
「建仁寺の学問面」の中核を担っていた
梅雨の頃には、半夏生・梔子(くちなし)の名所
<本堂(方丈)>
本尊 阿弥陀如来立像が安置されている
二重格天井で蟻壁がある
嘉永年間(1848年〜1854年)の再建
<枯山水庭園>
方丈の東南におかれる
三尊石組や、須弥山など、力強い立石が特徴
<坪庭「閼伽井庭」>
<書院>
寛永年間(1624年〜1644年)の再建
<書院前庭(京都府指定名勝)>
書院東側におかれる
池畔に沿って打たれた飛石は、池の北岸の茶室 水月亭に向かい露路がある
梅雨の頃は、半夏生の名所
<茶室 水月亭>
池の北側にたつ
織田信長の弟 織田有楽斎(おだうらくさい)好みの茶室 如庵を模したもの
二畳半台目
<茶室 臨池亭>
水月亭の横にたつ茶室
六帖席
白木屋(東急百貨店)の大村彦太郎の寄進
<露路 林泉>
茶道 藪内家五代 竹心紹智(ちくしんじょうち)の作といわれる
<毘沙門天堂>
寅年の人の守り本尊とされる
虎の狛犬、香炉にも虎が浮き彫りされている
<鬼面山の墓>
江戸時代中期、1781年(皇紀2441)天明元年頃から活躍した力士
「相撲今昔物語」巻八にも名前を残す実力はあったが、惜しくも出ッ尻で亡くなってしまう
<墓地>
約390坪の広さがあります
そのうち約1/4は、代々の白木屋(東急百貨店)大村一族のお墓
日本橋に呉服店を1662年(皇紀2322)寛文2年に開業した初代 大村彦太郎のお墓
両足院十世 雲外東竺(うんがいとうじく)に参禅した藪内家五代 中興の祖 竹心紹智のお墓
江戸時代初期の貿易商人で長崎代官となった末続政直(初代末続平蔵)のお墓(五輪塔)
その妻(飛騨高山城主 金森可重の娘)のお墓
二代 平蔵末次茂貞のお墓
1739年(皇紀2399)元文4年
江戸時代の陽明学者 三輪執斎が、両親の沢村自三夫妻のお墓と共に建てたお墓
門前には石標が立っている
天明年間(1781年〜1789年)に活躍した力士 鬼面山谷五郎のお墓
<饅頭屋町合塔>
日本に饅頭を伝えた林浄因の子孫一族が中京区烏丸三条下ル周辺に住んいたことから「饅頭屋町」という
地名が残る (後に、愛知県三河塩瀬村に住んだので「塩瀬」と改称される)
塩瀬家のお墓は、寛政年間(1789年〜1801年)頃の第19代 浄空を最後に途絶え無縁墓となり、
1931年(皇紀2591)昭和6年
饅頭町の諸家を合祀して建てられる
<木造阿弥陀如来立像>
本尊
鎌倉時代の作
<十一面観音菩薩立像>
桃山時代の作
<毘沙門天像>
毘沙門天堂に祀られている秘仏
像高さ約7cm
さらに小さい吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ)が脇侍として、三尊が台座の上に立っている
鞍馬寺の毘沙門天の胎内仏だったもの
織田信長が、比叡山の全山を焼き討ちにしたとき、鞍馬寺の僧が焼失を恐れ、室町幕府の茶家 比喜多養清のところへ疎開させたもの
関が原の合戦で、黒田長政が、関東方として出陣したとき、この毘沙門天を内兜に収めて奮戦し、勝利したといわれる
その後、代々黒田家で祀られていた
1877年(皇紀2537)明治10年
両足院に寄進される
勝利の神さんとして、商売繁盛・合格祈願・良縁成就・誓願成就が祈願される
「祇園の縁結び」
祇園の芸妓・舞妓さんが「いい旦那さんがみつかるように」と参拝して願いを成就させていたといわれる
寅年の人の守り本尊とされる
虎の狛犬、香炉にも虎が浮き彫りされている
毎年10月第1日曜日に大祭が行われる
<龍山徳見禅師(りゅうざんとっけんぜんじ)>
中国 元に渡り修行を重ねる
途絶えそうになっていた臨済宗黄龍派を再興した中興の祖
朝廷から、その法誉に対して「真源大照禅師」の号を賜わる
建仁時35世・南禅寺24世・天龍寺6世を務める
1358年(皇紀2018)正平13年/延文3年11月
龍山徳見禅師は、軽い病気にかかったとき、建仁寺に行き、墓穴を自ら掘り棺桶代わりの甕(かめ)を
埋めたといわれる
<林浄因>
中国 元の出身
孤高の詩人 林和靖(りんなせい)の末裔
龍山徳見和尚に帰依し、彼の日本帰国のときに来日し、子孫は帰化して禅僧や商人を輩出した
知足院三世で両足院を創建した文林寿郁(ぶんりんじゅいく)は、林浄因の曾孫
林浄因は、日本に饅頭を伝え、「饅頭の祖」と称される
子孫が、老舗「塩瀬」を創業するなど、食文化にも重要な功績を残した
<末続平蔵(初代 末続政直)>
江戸時代初期の貿易商人で長崎代官
筑前国博多の出身
妻は、飛騨高山城主 金森可重の娘
1546年(皇紀2206)天文15年
博多商人 末次興善の次男として生まれる
長崎開港とともに長崎に移り、朱印船貿易でベトナム・タイなど幅広く貿易を行い、アジア全域に商圏を獲得した
1619年(皇紀2279)元和5年
長崎代官となる
1630年(皇紀2290)寛永7年に死去
2代代官 末次茂貞・3代代官 末次茂房・4代代官 末次茂朝も「末続平蔵」を名乗る