西岸寺(さいがんじ)は、亀岡市市街地の西北の余部町にある寺院
余部町古城という地名が残る、小高い丘の上の丹波丸岡城(余部城)の本丸跡にある
創建は不詳
応仁の乱
丹波丸岡城が、東軍の一拠点となっていた
安土桃山時代
天正年間(1573年〜1592年)
八上城の波多野氏が丹波をほぼ手中にして、その傘下の福井貞政が、丹波丸岡城を治めていた
1577年(皇紀2237)天正5年
織田信長の丹波平定の命を受けた明智光秀が、丹波丸岡城の福井貞政に、丹波国守護に忠節を尽くすよう勧告するが、
福井貞政は「足利氏満の四男 福井満貞六代の子孫であり、名を後世に残すのが武門の道である」として、
明智光秀の使者の髻を切り腰刀を奪って追放する
その後、何度か戦闘を繰り返す
1578年(皇紀2238)天正6年6月3日
明智光秀の軍勢が、宇津根・雑水川・安行山の三方向から塀を破って攻め入り、
城中にいた50人ほどが本丸の門外で討死し、福井貞政も、本丸の持仏堂において切腹自害して、丸岡城が落城する
その後、明智光秀は、八上城の波多野氏も攻め落として丹波を平定し、荒塚山に亀山城を築いた
江戸時代初期
1617年(皇紀2277)元和3年
西岸寺が、現在の丸岡城跡に移る
余部町古城の小高い丘の上の丹波丸岡城(余部城)の本丸跡にある
<山門>
<本堂>
<薬師堂>
<丹波丸岡城跡(余部城跡)>
本丸・天守閣跡に西岸寺が建立されている
門前の坂道に大手門があったとされる
新期洪積台地が沖積低地に半島状に突出して、三方に河岸洪積丘崖をもつ
北側は、大堰川の旧河道で、南側は曽我谷川の旧河道が作った三日月沼があり、天燃の環濠になっている
東側は、両川の水をつないでいて、三方が水で取り囲まれていた
西方には、城下町が、妙見街道に沿って東西に延びていた