西方寺(さいほうじ)は、東大路通西側に面して二条通を下ったところにある寺院
大炊御門家、綾小路家、五辻家(いつつじけ)の菩提寺となっている
寺院が立ち並ぶ新洞仏教会の地区にあり、東大路通は東端となる
<本堂>
<露地庭>
<地蔵堂>
山門の右手にある
衣通姫地蔵(そとおりひめじぞう)が祀られている
厄病除け、安産にご利益があるといわれる
<茶室「梅窓庵」>
1966年(皇紀2626)昭和41年に移築されたもの
裏千家今日庵の写しといわれる
<墓地>
大炊御門家、綾小路家、五辻家((いつつじけ)の菩提寺であり、そのお墓がある
江戸時代の儒学者・文人 紫野栗山のお墓
<小野寺十内招魂碑>
江戸時代の赤穂浪士の一人
碑には、小野寺秀富(幸右衛門)、岡野包秀(金右衛門)、大高忠雄(源吾)の名前も刻まれている
1702年(皇紀2362)元禄15年の吉良邸討ち入りで裏門隊に属し、討ち入り後、熊本藩主・細川綱利の下屋敷へお預けになり、
その間に妻の丹と和歌のやりとりをしていた
1703年(皇紀2363)元禄16年2月に切腹となり、丹は、6月に本本圀寺で夫を追って絶食し自害した
当西方寺は、十内の母の菩提寺であり、碑は丹により立てられたといわれる
<木造 阿弥陀如来坐像(重要文化財)>
本尊
平安時代後期の作、木造寄木造、像高236cm(丈六坐像)
定印、結跏趺坐しており、光背は三千仏光背といわれ、多くの小さな化仏と、やや大きな13体の化仏が囲んでいる
1076年(皇紀1736)承保3年に、白河天皇の勅願で建立された法勝寺の遺仏といわれる
1917年(皇紀2577)大正6年4月5日 重要文化財に指定
<木造彩色 豊臣秀吉公座像>
本堂に安置されている
等身大(81cm)で、豊臣秀吉の姿にに1番似ているといわれる座像
桃山時代の七条仏師 康生の作
解体修理により、脚部に仏師の名前と、「慶長四年六月廿八日」(1599年(皇紀2259)慶長4年6月28日)の朱書きがある
後頭部内部にも「慶長八年六月中旬」(1603年(皇紀2263)慶長8年6月中旬)の銘が見つかった
豊臣秀吉は、1598年(皇紀2258)慶長3年8月に亡くなっており、翌1599年(皇紀2259)慶長4年に制作が始まり、
4年後の1603年(皇紀2263)慶長8年に完成したといわれる
<衣通姫地蔵(そとおりひめじぞう)立像>
地蔵堂に祀られている
江戸時代の作、像高約1.5m
右手に錫状、左手に宝珠を持っており、截金文様が施こされている
衣通姫伝説の故事がある
疫病除け、安産のご利益がある
洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第25番札所
<大炊御門経宗(おおいみかどつねむね)>
1119年(皇紀1779)元永2年−1189年(皇紀1849)文治5年
平安時代後期から鎌倉時代の公卿
公卿 大炊御門家初代 藤原経実(ふじわらつねざね)の四男
1149年(皇紀1809)久安5年に参議になり、二条天皇の伯父として天皇親政を推進した
1159年(皇紀1819)平治元年に平清盛と源義朝の対立に上皇の近臣の争いが絡んだ平治の乱では、当初は公卿 藤原信頼についたが、
後に裏切った
1160年、後白河上皇により解官され、阿波に流された
後に、左大臣に復帰する
晩年、法然上人に帰依する
有職故実に通じ、和歌にも優れたといわれる
<衣通姫伝説>
「衣通姫地蔵尊略縁起1737」「日本書紀」によると
第19代 允恭天皇の皇后 忍坂大中姫(忍坂大中津比売命)の同母妹 弟姫(おとひめ)が、7歳のときに疫病で亡くなり、
冥途で生身の地蔵を拝して蘇生したことから、その報恩のために衣通姫地蔵が造られたといわれる
「古事記」によると
允恭天皇と、皇后 忍坂大中姫命(忍坂大中津比売命)との間の皇女 軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)
軽大娘皇女は美しい女性であり、美が衣を通してあらわれるほどであることから「衣通姫(そとおりひめ)」と称された
同母兄 木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)と恋に落ちたため、木梨軽皇子が伊予国へ流刑になり、
軽大娘皇女も後を追い、二人は自害したといわれる