西光寺(さいこうじ)は、亀岡市市街地の北部、安町にある寺院
平家物語に登場する鹿ヶ谷事件で死罪になった西光(藤原師光)が祀られている
奈良時代
749年(皇紀1409)天平勝宝元年
東大寺の建立や社会福祉事業などに活躍した行基が、阿弥法師とともに勧進されて、
現在の地の西にある蓍山(しばやま)(安行山)の麓に庵を建立され「行基院」と称したのが由来
平安時代末期
1177年(皇紀1837)治承元年 鹿ヶ谷事件
後白河法皇の命により、藤原成親や俊寛僧都ら後白河法皇の近臣が、平家打倒を謀議した鹿ヶ谷事件を首謀して
死罪となった藤原師光 入道 西光法師の遺骨を同庵に埋葬し、西光寺として一宇が建立され、開山を西光法師としました
江戸時代初期
慶長年間(1596年〜1615年)
学同和尚により、現在の地に移される
元和年間(1615年〜1624年)
火災により焼失する
寛永年間(1624年〜1644年)
西光寺29世の恵譽圓霊上人(けいよえんれいしょうにん)により再建される
その後、荒廃していく
江戸時代中期
鏡譽恢源和尚(きょうよかいげんおしょう)が寺門興隆に尽力され、中興上人とされる
<地蔵堂>
恵心僧都 源信の作の氷上地蔵尊が祀られている
<氷上地蔵尊>
地蔵堂に祀られている地蔵菩薩
恵心僧都 源信が感得して自ら彫刻されたもので、誓願寺に祀られていた
1694年(皇紀2354)元禄7年5月23日の夜
誓願寺の僧 超然上人と当山の鏡譽上人(きょうよしょうにん)の2人の霊夢に従って、西光寺に招来された
<西光法師>
平安時代後期の廷臣
生まれは、阿波国の在庁官人の子といわれる
藤原通憲(ふじわらみちのり)入道信西の家人となり、推挙により左衛門尉に任ぜられた
平治の乱で、信西に従い、京を逃れて出家し「西光」と称した
その後、後白河法皇に仕える
1177年(皇紀1837)治承元年 鹿ヶ谷事件
藤原成親や俊寛僧都らと平氏討伐を画策したことが、多田行綱の密告により発覚する
西光は、平家に捕らえられ、連れて行かれた西八条邸で平清盛を直接罵り、拷問にかけられた末、
口を割かれて無残な最期を迎えた