真如堂(しんにょどう)は、岡崎の北東、鹿ヶ谷の西、金戒光明寺の北に隣接している寺院
正式名称の「真正極楽寺」とは、「極楽寺という寺院は多いが、こここそが正真正銘の極楽の寺院である」という意味がある
「真如堂」とは、もともとは本堂の呼び名だった
涅槃の庭などが、紅葉の名所、萩の名所、桜の名所
三井家の菩提寺となっている
<本堂(重要文化財)>
<三重塔(法華塔)(京都府指定文化財)>
<鎌倉地蔵堂>
<鐘楼堂>
<石薬師堂>
<元三大師堂(京都府指定文化財)>
<石灯籠>
<開山堂>
<萬霊堂>
<阿弥陀如来露仏>
<千体地蔵堂>
<三千仏名堂>
<赤門(総門)>
<涅槃の庭>
<燈明寺型石燈籠>
<伝教大師巡錫之像>
<縣井観音堂(あがたいかんのんどう)>
<茶所>
<去来句碑>
<「京都映画誕生の碑」>
<ヤマモモ(京都市指定巨樹名木)>
<菩提樹(京都市指定巨樹名木)>
<大しゃしゃんぽ(京都市指定巨樹名木)>
<百日紅(京都市指定巨樹名木)>
<立皮桜(たてかわざくら)(京都市指定巨樹名木)>
<花の木(はなのき)(京都市指定巨樹名木)>
<新長谷寺(しんはせでら)>
「新長谷観音堂(しんはせかんのんどう)」とも称される
本堂の北西に建つ
明治維新
神仏分離令により吉田山から、現在の地に移築されたもの
洛陽三十三所観音巡礼第五番札所(十一面観音菩薩)
<赤崎弁才天>
本堂左横の池の中島に立つ小さな祠
「真如堂縁起」によると、
1519年(皇紀2179)永正16年
真如堂に90日間参籠していた美作国大葉郡真島庄の念仏行者の善阿弥が、住持 昭淳律師の「本堂は完成したが、
資金がもうなく供養の儀式ができない」という嘆きを聞き、勧進のために周防国(現在の山口県東南)に出かけた
1521年(皇紀2181)永正18年正月1日
赤崎弁才天の宝前において断菜木食して一心に祈念する
その後、厳島社で17日間の参籠結願をし、勧進を得て、5月下旬に安芸国を出て6月11日に帰洛した
8月15日には礼堂において僧衆48人を集めて別時念仏が行われた
その後、無事に供養が円成した報恩感謝のため、赤崎弁才天を勧請して祀られたといわれる
<元真如堂(もとしんにょどう)(換骨堂)(かんこつどう)>
真如堂の境外塔頭
東三条院 藤原詮子(一条天皇の母親)の離宮だったところ
984年(皇紀1644)永観2年
戒算上人(かいさんしょうにん)を開山として、比叡山堂行寺の阿弥陀如来像を移して創建したのが由来
当地には、「念仏堂」と称された小堂宇が残された
1842年(皇紀2502)天保13年
尼僧 黙旨が、尼衆の請に応じて尼僧寺院として再興する
東三條院の供養塔、戒算上人が蓮華童子の教示によって発掘したといわれる閼伽井(あかい)(蓮華水)(れんげすい)がある
<法伝寺>
<喜蓮院>
<理正院>
<法輪院>
<松林院>
<東陽院>
<覚円院>
<吉祥院>
<木造 阿弥陀如来像(重要文化財)>
本尊
「うなずきの阿弥陀」と称される
慈覚大師 円仁が、阿弥陀如来が完成し「修行者のための本尊となって下さい」と、眉の間に白毫を入れようとすると、
阿弥陀如来が頭を横に振られたので、「それでは、山を下りて全ての人々の救済をして下さい。特に、女性をお守り下さい」と
嘆願すると、うなずかれたといわれる故事が残る
一木彫、像高108cm、平安時代の作
来迎形式の阿弥陀如来立像では最古の仏像
洛陽六阿弥陀めぐりの一つ
毎年11月15日にご開扉される
<法華経 自巻第二至巻第七 6巻(国宝)>
1183年(皇紀1843)寿永2年のもの
仏師・運慶の発願によって書写された法華経8巻のうちの一部
第一巻は亡失し、第八巻は個人により所蔵されている
第八巻の巻末奥書に記されている経緯によると、
安元年間(1175年〜1177年)に、運慶が、法華経書写を発願
1183年(皇紀1843)寿永2年
阿古丸の援助を得て書写が行われ、快慶や一門の仏師たちにより書写された
経文は、珎賀(ちんが)により著されている
巻軸には、書写の3年前の1180年(皇紀1840)治承4年に兵火で焼失した東大寺の焼け残りの木を用いたことが、
軸木の墨書に記されている
<大涅槃図>
縦6m、横4m
お釈迦さんが、死去されたときの様子を描いたもの
沙羅の木の元に、北に頭を向け、右脇を下にしたお釈迦さまが身を横たえ、その周りを菩薩・天部や弟子たちが囲んでいる
真ん中の上には、2月15日の満月が、
右上の雲には、お釈迦さまの生母 摩耶夫人が、知らせを受けて急いでやってくる様子描かれていまる
下部には、127種類の動物や魚類・昆虫などが描かれており、動物の種類の多さでは日本最多といわれる
猫も描かれており、動物や鳥たちが手向けの花をくわえている姿が描かれている
1709年(皇紀2369)宝永6年
三井家の女性たちの寄進により、海北友賢(海北派の画家)や厭求(浄土宗の高僧)によって制作されたもの
<絹本著色 普賢菩薩像(重要文化財)>
<紙本著色 真如堂縁起3巻(重要文化財)>
1524年(皇紀2184)大永4年の作
縁起が描かれた絵画
真如堂の記録だけではなく、応仁の乱や遣隋使の様子なども生々しく描かれている
文字は、後柏原天皇の勅筆とされる
1693年(皇紀2353)元禄6年頃
前年の火災などにより、危機感と、再建のための勧進目的のために、「真如堂縁起三冊本」などと同じ時期に制作される
誰による描画・詞書かは不詳だが、原本を忠実に再現されている
原本は京都国立博物館に寄託されている
年に1度、毎年7月25日に行なわれる宝物虫払会で写本が公開される
<慈円僧正消息(重要文化財)>
<千手観音菩薩像>
<不動明王像>
<観経曼陀羅(かんぎょうまんだら)>
「観無量壽経」に記されている極楽浄土の世界などを絵解きのような形で忠実に表現したもの
奈良の当麻寺に天平時代に製作された同図があるところから、同様のものを「当麻曼陀羅」とも称される
阿弥陀如来が中心で説法しておられ、両脇や下部には浄土の世界をイメージする「十六観相」や、
ビンバサラ王夫妻とアジャセの物語、9つの極楽の世界の様子などが描かれている
江戸時代中期
本堂の大きさに合わせて、金糸などによる刺繍で製作され、三井家より寄贈されたもの
<寒山拾得>
狩野山雪の作
畳2畳分ほどある大きな絵画
寒山・拾得は中国 唐時代に実在していたといわれる脱俗的人物
天台山国 清寺に出入りして、僧侶たちの残した食べ物を竹筒に蓄えて食料としたり、境内で叫び声をあげたり、唱歌諷誦し、
僧たちに杖で追われると掌を叩きながら大笑いして去っていったといわれる
僧でも俗人でもなく、仏教の哲理や詩作には詳しかったといわれる
<釉貼花花卉鳳凰六耳壺>
15〜16世紀の中国福建省製の油壺
足利義政が、永代燈明油入れとして寄進されたもの
「汲めども尽きぬ真如堂の油壺」といわれ、富栄の様が語られたといわれる
<舎利塔>
後醍醐天皇の寄進
舎利(釈尊の遺骨)を、四天王が囲んで護持している
寄進のとき添えられた「御綸旨」には、
「仏舎利を真如堂の霊宝として、朝夕のお勤めを怠ることがないように」とのことが記されている
<初洛陽六阿弥陀めぐり>
1月15日
一年の最初の六阿弥陀巡りで、「南無阿弥陀仏」を念ずれば極楽浄土するといわれる
<洛陽六阿弥陀めぐり>
阿弥陀如来を安置する六か寺を巡拝する
まず、真如堂で洛陽六阿弥陀巡拝の証をもらい蓮華の朱印を受け、永観堂・清水寺阿弥陀堂・安祥院・安養寺の順で回り、
誓願寺で結願する
毎月の功徳日に3年3ヶ月の間参拝をすれば、無病息災・家運隆盛・祈願成就など特別な功徳があるといわれる
<涅槃会>
3月15日
3月1日から31日まで大涅槃図が一般公開される
花供曽(はなくそ)が授与される
<宝物虫払会>
7月25日
「真如堂縁起」や「寒山拾得」などの寺宝約200点が本堂にて土用の風を通して虫干しされる
<引声阿弥陀経会>
10月14日〜16日
引声(いんぜい)は「声明」とも称され、法要の時に僧が唱える声楽のこと
慈覚大師 円仁が渡唐されたとき、五台山(ごたいさん)において生身の文殊菩薩から、極楽世界八功徳池の波の音に
唱和する「引声阿弥陀経(いんぜいあみだきょう)」を伝授されたといわれ、阿弥陀経に取り入れられた
ゆるやかな節まわしで阿弥陀経が長々と唱えられる
現在は、真如堂のみに残る仏事で、16日が結願(けちがん)
<十日十夜別時念仏会(じゅうにちじゅうやべつじねんぶつえ)>
11月5日〜15日
十日十夜、念仏が唱えられ、極楽往生を願う浄土宗の重要な仏教行事
「お十夜(おじゅうや)」と称される
11月15日には、年に一度、本尊 阿弥陀如来立像がご開扉される
中風除けの小豆粥の接待もある
<観経曼陀羅公開> 11月
<除夜の鐘> 12月31日
<わらべうた>
「ああ真如堂(しんど) 飯(めし)黒谷(食ろうだに)
ここらでいっぷく 永観堂(ええかんどう) お茶漬けさらさら南禅寺(何膳じ)」
真如堂・金戒光明寺・永観堂・南禅寺が登場する
<町名>
応仁の乱以降、江戸時代中期に元の地に戻るまで、京都市内を転々とすることになり、各地の町名に名残をとどめている
寺町今出川下ル:「真如堂突抜町」「真如堂前町」
一条西洞院:「元真如堂町」
烏丸二条:「真如堂町」
<映画「本能寺合戦」>
日本最初の時代劇映画
1908年(皇紀2568)明治41年
真如堂を本能寺に見立てて撮影が行われた
<花供曽(はなくそ)>
3月1日から31日まで、大涅槃図が一般公開されるときに授与されるお菓子
一年間、無病息災でいられるといわれる