宗堅寺(そうけんじ)は、亀岡市市街地南部の城下町の西竪町にある寺院
福井県 永平寺・横浜 總持寺を大本山とする末寺
亀山城城主 羽柴秀俊(小早川秀秋)が息子の菩提を弔うため毎年、米2石を寄進した亀山五ヶ寺の一つ
亀山藩藩主 菅沼定芳が、亡き父親の菅沼定盈の菩提寺として改修する
宗堅寺の西隣には、藩主 菅沼定芳の母親 嶺樹院殿が、先祖の菩提を弔うために創建した嶺樹院が並んである
開山・開基などは不詳
戦国時代
1489年(皇紀2149)延徳元年
長徳寺として創建される
1592年(皇紀2252)文禄元年
亀山城城主 羽柴秀俊(小早川秀秋)が息子の菩提を弔うため毎年、米2石を寄進した亀山五ヶ寺の一つとされる
1621年(皇紀2281)元和7年頃
亀山藩藩主 大給松平成重が、夫人の久松寺殿椿岳宗寿大姉(きゅうしょうじでんちんがくそうじゅだいし)の菩提寺として改修して、
久松寺と改称される
1635年(皇紀2295)寛永12年
亀山藩藩主 菅沼定芳が、亡き父親の菅沼定盈(さだみつ)の菩提寺として改修し、
菅沼定盈の戒名の勝徳院殿翁宗堅大居士(しょうとくいんでんちょうおうそうけんだいこじ)から宗堅寺と改称される
明治時代初期
大火により、寺宝や古文書のほとんどを焼失し、創建当寺の開山・開基などが不詳となる
<本堂>
本尊の聖観音菩薩立像が祀られている
<客殿>
薬師如来坐像が祀られている
<亀山城惣堀跡(御土居)(亀岡市指定史跡)>
亀山城の南側の城下町を防御するために、三重目の堀として惣堀(そうぼり)を巡らされて堅牢な城構えとなっている
惣堀は、豊臣秀吉の代官であった北条氏勝のときに造営されたもの
御土居は、惣堀の造営にあたって、掘り上げられた土を内側に土手状に高く盛り上げたもの
御土居の上には、亀山藩藩主 菅沼定芳が、息子 定昭(さだあきら)が若くして亡くなり跡継ぎがいなく改易になった、
菅沼定芳・定昭親子と殉死した3名の家臣と乳母のお墓がある
<墓地>
亀山藩藩士で勤皇志士 奥平小太郎のお墓がある
尊王攘夷派漢詩人 梁川星巌や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らと交遊し活躍した
1859年(皇紀2519)安政6年、安政の大獄に連座して拘禁される
1860年(皇紀2520)万延元年、藩獄の中で、27歳の若さで亡くなる
<百日紅の見どころ>
<如意輪観音菩薩坐像(京都府指定文化財)>
宝物庫の須弥壇に安置されており、ガラス戸越しに拝観できる
像高125cm
1298年(皇紀1958)永仁6年、慶派安阿流(あんあみゅう)法橋 賢清の作
宗堅寺の隠居寺だった篠町浄法寺にあった妙楽寺の本尊で、傍の小池から現れたといわれる霊像
諸病の平癒にご利益があるといわれる
<乳薬師>
客殿に祀られている薬師如来坐像
法界寺の日野薬師と同木同作といわれる
平安時代後期の作、像高75cm
「乳薬師」と称されて、授乳・安産・子授けなど婦人の祈願にご利益があるとされる