雙林寺(そうりんじ)は、東山区の円山公園の南に建つ寺院
現在は、本堂と飛地境内に西行庵が残っている
この地が唐(中国今浙江省)の沙羅双樹林寺に似ていたことから「沙羅双樹林寺」と号された
平安時代後期の武士で後白河天皇に仕えた平康頼、平安時代後期の歌人 西行、南北朝時代の歌人 頓阿などが隠棲した
日本最初の護摩祈祷道場とされ、現在も毎月、祈願護摩が行われている
<石標「大聖歓喜尊天雙林寺」>
<石標「真葛ヶ原 楠弁財尊天」>
<本堂>
薬師堂
扁額「薬師如来 大聖歓喜天」
<春日燈籠>
六尺
<草屋>
<十三重石塔>
<伝教大師童形像>
<地蔵堂>
持病平癒地蔵尊として信仰されている
扁額「持病平癒地蔵尊」
<法華塚>
本堂前にある
1141年(皇紀1801)永治元年
鳥羽天皇皇女 綾雲女王(あや)が、天皇の没後、その菩提を弔うため鳥羽天皇直筆の宸筆の金字8巻を納める法華塔を建立する
応仁の乱により、法華塔が、法華経とともに焼失する
その後、その灰を集めて一塊の塚とされる
現在は、五輪の塔が立てられている
左側「頓阿法師供養塔」、中央「西行法師供養塔」、右側「平康頼供養塔」の供養塔3基が東面してある
西行・頓阿・平康頼の3者は、この地に住んだことがあるといわれる
<墓地>
江戸時代の画家 渡辺南岳、俳人 和田蕉嵐、書家 亀田窮楽、画家 池田東籬のお墓があるとされる
<西行庵>
境内の南西にある
桃山時代、雙林寺の塔頭 蔡華園院の跡地(場所は不明)に建てられたといわれる
豊臣秀吉が、ここで花見の宴を催したといわれる
1731年(皇紀2391)享保16年、摂津池田 李孟寺の天津禅師により現在の地に移され再興された
1770年(皇紀2430)明和7年、公家・歌人 冷泉為村により修復された
堂中央に、 冷泉為村筆「花月庵」の額が掲げられた
1892年(皇紀2552)明治25年、宮田小文法師により浄妙庵、皆妙庵が移築された
<塔頭>
鎌倉時代までは、数万坪ともいわれる広大な寺領に、17の塔頭があった
江戸時代までは
妙喜寺(景雲庵)、長喜庵、勝林院、蔡華園院、円頓院、発心院、蓮華院、通玄庵、松泉庵などが点在していたといわれる
現在は一つも残っていない
<木造 薬師如来坐像(重要文化財)>
本尊 東山薬師(ひがしやまやくし)
一木造、カヤ材、内刳なし、漆箔、彩色、像高 85.5㎝
右手は与願印を結び、左手に薬壺(やくこ)を持っている
平安時代の翻波式衣文(えもん)がよく表現されている
最澄の自作ともいわれている
最澄の薬師如来像を摸刻した「天台七仏薬師」の一つとされる
病気平癒の信仰がされている
京都十二薬師霊場会第7番札所
<歓喜天>
秘仏
1967年(皇紀2627)昭和42年に生駒山宝山寺より勧請されたもの
<武装大国天像>
脇壇に安置されている
平安時代の作
<聖徳太子養像>
脇壇に安置されている聖徳太子の子供の姿の像
鎌倉時代の作
<持病平癒地蔵尊>
地蔵堂の地蔵菩薩
1872年(皇紀2532)明治5年
追善のために法華塚修繕のときに、土中より見つかった
通りかかった人が、長年の持病平癒を祈願したところ全快したとして、以後、持病平癒地蔵尊として信仰されている
<伝教大師童形像>
最澄の子供の姿の像
1953年(皇紀2613)昭和28年より、少年補導所前庭にあったもの
2010年(皇紀2670)平成22年に移された
修正会 1月1日0時
新春護摩 1月1日〜2日11時
彼岸会 春分の日14時
花御堂灌仏 4月8日
盂蘭盆、先祖回向法要 8月15日14時
伝教大師童形像前勤行 8月18日18時
彼岸会 秋分の日 14時
<月例行事>
十一面観音護摩祈祷(聖天日) 毎月1日
薬師護摩祈祷(薬師日) 毎月8日11時
地蔵日 毎月24日
<真葛ヶ原>
現在の円山公園を挟んで、北は知恩院三門前、南は雙林寺、東山山麓一帯を「真葛ヶ原」と称される
「真葛ヶ原 楠弁財尊天」の石碑が立つ
かつて、真葛や薄、茅などが生い茂り、萩の名所だったといわれる
桃山時代以降、
豊臣秀吉が、ここで花見の宴を催したことで、雙林寺境内は桜の名所として知られるようになる