清浄華院(しょうじょうけいん)は、京都御所の東、寺町通の廬山寺の北にある寺院
「清浄華院」には、「浄土に咲く蓮の華のように清らかな修行ができる場所」という意味がある
皇室と、密接な関係を有している
<大殿(御影堂)>
内陣中央に本尊の法然上人像が祀られている
本堂であり、境内で一番大きな建物なので「大殿」と称される
内陣の東壇の尊牌壇には、ゆかりある天皇・皇族の方々の位牌が安置されている
建物西側には、勅使や皇族の方々用の玄関がある
建物の各所には、皇室ゆかりの菊花紋が施されている
何度も類焼しており、そのたびに御所の建物の下賜を受けて再建されている
現在の建物は、
1967年(皇紀2627)昭和42年に竣工、1969年(皇紀2629)昭和44年(法然上人700年大遠忌)に落慶
皇室御用の木曾御用林の木材を使用されている
このときに、西向きから南向きで建立された
<不動堂>
本尊 半丈六不動明王坐像が祀られている
享保年間(1716年〜1736年)
かつての建物が、泣不動尊像の信仰が盛んになり、建立される
2010年(皇紀2670)平成22年
現在の建物が、法然上人800年大遠忌にあわせ、大遠忌総門北脇殿を転用して再建された
堂内には護摩壇があり、毎月28日に不動講護摩会が行われている
<大方丈(仏堂)>
阿弥陀三尊像を本尊として祀られている
中尊の阿弥陀如来坐像は恵心僧都 源信の作といわれる
<小方丈>
式台付きの玄関、六間の座敷があり、団体詰め所、応接間、浴場、職員宿舎などが増築されている
座敷からは、京都庭園室 小埜雅章の作庭による「浄土の庭」が眺められる
<浄土の庭>
苔の中に、阿弥陀如来や聖衆の菩薩と、その光明をあらわす石などが置かれている
<茶室「清華亭」>
中庭にある
1934年(皇紀2594)昭和9年の建立
<阿弥陀堂>
阿弥陀如来が祀られている
かつては、現在のつきかげ苑の位置に南向きにあったが、平安時代に取り壊わされた
現在の建物は、塔頭 松林院の本堂を改築されたもの
松林院の本尊だった阿弥陀如来坐像が、そのまま祀られている
松林院は、後伏見天皇の皇孫で八世 敬法上人が創建した塔頭で、江戸時代は勅願所として別院とされた
開明門院(桃園天皇の母親)の尊牌や、万里小路家、山科家、姉小路家など諸家の位牌も安置されている
現在の建物は、大正天皇御大典のときに二条城に建てられた饗応所(大廊下)を宮内省より下賜され、
その部材を使って建てられた
<霊廟御廟>
境内東の墓域にある
厨子の中に、法然上人の分骨を祀る「無縫塔」と称される形式の石塔が納められている
御忌や、毎月25日には扉が開けられ礼拝される
<是心堂(寺務所)>
向阿上人が祀られている
2010年(皇紀2670)平成22年
法然上人800年大遠忌にあわせ、第五世 向阿是心上人の顕彰事業の一環として建立された
2階の仏間に、勢至菩薩坐像を中心に、向阿上人像、その師匠の礼阿上人像、金比羅・秋葉権現像が祀られている
<地蔵堂>
本尊の地蔵菩薩立像は、江戸時代にあった塔頭 地蔵院に祀られていたもの
「染殿地蔵」と称され、子授け・安産・子育ての信仰をされている
孝明天皇典侍 中山慶子の信仰も篤く、そのご利益で明治天皇を授かったといわれる
閻魔王坐像や石薬師も祀られている
かつては、現在の不動堂の前あたりにあったが、つきかげ苑建設に伴い取り壊される
2011年(皇紀2671)平成23年
総門南脇殿を改築して再建された
<納骨堂>
大殿から渡り廊下で結ばれている
1934年(皇紀2594)昭和9年の建立
1987年(皇紀2647)昭和62年
現在の本尊として、納骨された3,000体の納骨から彫刻家 今村輝久によって骨仏が造立された
<山王権現社>
清浄華院の鎮守 山王権現が祀られている
清浄華院の創建のときに、慈覚大師 円仁が、比叡山 天台宗の守護神を勧請したといわれる
山王権現の使いが猿であるため、「魔を去る(サル)」として厄除けの信仰がされている
江戸時代には、4月に山王神事、11月に御火焚祭が盛大に行われていたといわれる
2010年(皇紀2670)平成22年
大遠忌にともない、大殿前に移転・修復された
<総門>
清浄華院の表玄関
高麗門、両脇に付属していた番小屋は、現在、地蔵堂、不動堂として改築されている
<勅使門>
称光天皇が、阿弥陀堂を再建したときに寄進されたといわれる
1934年(皇紀2594)昭和9年
現在の建物が再建される
唐門様式で、扉に菊の紋が入れられている
皇族の参詣、法主台下(住職)の晋山式以外は閉じられている
<築地塀>
勅使門の両脇の築地塀
桂宮家第8代 京極宮家仁親王(後桂光院)による寄付
5本の白線が入っている
<東門>
河原町通の門
薬医門
門の梁には1676年(皇紀2336)延宝4年の棟札が打ち付けられており、清浄華院最古の建物とされる
<鐘楼堂>
2010年(皇紀2670)平成22年
八百年大遠忌記念事業の一環として再建されたもの
梵鐘は、1610年(皇紀2270)慶長15年
大坂堺の阿弥陀寺住職旭蓮社良道和尚の発願により、近衛殿北政所心光院により鋳造されたもの
<天明大火供養塔>
1788年(皇紀2448)天明8年1月30日の天明の大火の犠牲者の五輪塔
3月24日より7日間にわたる別時念仏と施餓鬼会が行われたときに建立された
銘文には「焼亡横死百五十人之墓」とあるが、実際には死者2600人ともいわれる
<智満姫供養塔>
天璋院 篤姫の曾祖母の宝篋印塔
公家 堤公長の娘 智満姫(お千万の方)(春光院)は、薩摩藩8代藩主 島津重豪の側室となる
堤家の菩提寺が、清浄華院 塔頭 松林院であったといわれる
<立入宗継旌忠碑>
立入宗継は、戦国時代から桃山時代代にかけての商人
土倉として金融業を営みつつ、禁裏御所の財政を担う禁裏御蔵職を務め、朝廷の権威復興に尽力したといわれる
正親町天皇の使いとして織田信長の上洛を促したといわれ、時代祭の「織田公上洛列」の先頭で登場する
1898年(皇紀2558)明治31年
明治政府により、立入宗継の功績を讃えて従二位の位を贈くられたのを記念して碑が建立された
<蜂須賀桜>
阿波徳島藩蜂須賀家の居城 徳島城(徳島市)ゆかりの桜
赤色が濃い、早咲きの桜
2011年(皇紀2671)平成23年
NPO法人「蜂須賀桜と武家屋敷の会」が徳島藩ゆかりの社寺への植樹の一つとして植樹された
清浄華院には、徳島藩7代藩主になる前に京都で隠棲していた蜂須賀宗英のお墓がある
阿弥陀堂には、蜂須賀宗英と、その娘の厨子入りの位牌が祀られている
<「贈従一位山科言継公募所」の石碑>
<墓地>
河原町通にまで続く
戦国時代からの名士の墓が多くある
後陽成天皇、後水尾天皇、孝明天皇等の皇子・皇女の御陵墓、各宮家の墓がある
(宮内庁の所管)
<良樹院>
<龍泉院>
<無量寿院>
<絹本著色 阿弥陀三尊画像(国宝)>
四明普悦の筆
現存する中国南宋仏画の中でも白眉とされる貴重な作品
中国寧波から輸入されたもので、室町将軍家が所蔵していたものといわれる
<泣不動縁起絵巻(重要文化財)>
故事「泣不動」の絵巻
病床の智興内供、証空の帰郷、母との別れ、阿部晴明の祈祷、病床の証空、不動明王への祈念と画像の落下、
証空の身代わりとなった不動明王が瞑附に行くところと平伏する閻魔王、雲に乗って現世に戻る不動明王、
平癒した証空が母と再会を喜びあうところ、などが描かれている
宅間法眼の筆で、室町時代初期の作といわれる
通常は絵巻に付属している詞書がない珍しいもの
<法然上人像>
法然上人が42歳のときの姿を、自ら刻まれたものといわれる
42歳は男性の本厄で、江戸時代から「厄除圓光大師」として信仰を受けている
<阿弥陀如来坐像>
大方丈の本尊 阿弥陀三尊像の中尊
恵心僧都 源信の作といわれる
<観音菩薩坐像>
大方丈の本尊 阿弥陀三尊像の一つ
正座のように足を曲げる「大和座り」と称される珍しい座り方をしている
<勢至菩薩坐像>
大方丈の本尊 阿弥陀三尊像の一つ
正座のように足を曲げる「大和座り」と称される珍しい座り方をしている
<波除不動尊像>
不動明王立像
平安時代の作
江戸時代には、毎月不動講による百万遍念仏による供養が行われていた
現在は秘仏とされている
<半丈六 不動明王坐像>
現在の不動堂の再建にあたり本尊として、仏師 信行堂 菱田信行により新造された
約2m近い坐像
不動堂内に護摩壇があり、毎月28日に不動講護摩会が行われている
<勢至菩薩坐像>
是心堂の2階の仏間に祀られている
知恩院の勢至菩薩像(重要文化財)の摸刻であるともいわれる
背中の天衣をX字形に交差させる珍しい着用法をしている
<金比羅・秋葉権現像>
是心堂の2階の仏間に祀られている
文政年間(1818年〜1830年)の作
かつて不動堂に安置されていたもので、火事除けの神として祀られたといわれる
<涅槃図>
<故事「泣不動」「身代り不動」>
三井寺の智興内供が重病にかかり、陰陽師 阿倍晴明に相談したところ、
寿命でもありどうしようもないが、弟子などで身代わりとなる者がいれば代わるよう祈祷できると言われる
この時、多くの弟子の中で、若い証空が、身代わりとなることを申し出る
証空は、80歳にもなる母親に、その旨を話しに帰郷し、驚いて止める母親をおいて、師と約束を果たしに戻ってくる
阿倍晴明の祈祷によって、師の病を受けた証空は自坊に帰り、いつも信仰していた不動明王に祈ると、
絵画像の不動明王が涙を流し、「汝は師に代わる、我は汝に代わらん」と言って檀の上に落ちた
すると、証空の病も治り修行に戻り、母親にも再会することができたといわれる
<法然上人二十五霊場第二十三番 御詠歌>
「雪のうちに 仏の御名を 唱ふれば 積もれる罪ぞ やがて消えぬる」