相国寺(しょうこくじ)は、足利将軍家ゆかりの禅寺
京都五山の第2位にあり、五山文学の中心地
山内に禅宗寺院を統制管理する僧録司を置き、禅宗行政の中心的存在
画僧周文や雪舟を輩出している
金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭である
京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接する
最盛期の寺域は、東は寺町通、西は大宮通、南は一条通、北は上御霊神社との境までの広さがあった
応仁の乱や天明の大火により、三門と仏殿が焼失し、再建されることがなかった
かつては、勅使門−天界橋−三門−仏殿−法堂−唐門−方丈と一直線に並び、方丈の東側に庫裏が続いて建つ、
禅宗様式の伽藍配置がされていた
<法堂(はっとう)附玄関廊(重要文化財)>
1605年(皇紀2265)慶長10年
豊臣秀頼の寄進により、5回目の再建がされる
法堂建築としては日本最古で最大の規模の遺構
現在は、仏殿をも兼ねている
正面28.72m、側面22.80m
鏡天井の雲龍図「蟠龍図」は、狩野光信の筆で、特定の場所で手を打つと反響するため「鳴き龍」と称される
円相内に龍が、円相外に雲が画かれている
<開山塔(開山堂)>
開山 夢窓疎石の像が安置されている
「一名円明塔」と称される
1807年(皇紀2467)文化4年に
桃園天皇の皇后 恭礼門院の御殿を移築したもの
前庭には、かつて今出川の一部であった水が流れており、「龍渕水」と称されていた
<方丈>
法堂の北、堀に囲まれて、唐門から中に入り、南面して建つ
東側には、庫裏に続いている
1807年(皇紀2467)文化4年に再建されたもの
桁行25m、梁間16mと、方丈としては大建築物
<庫裏(くり)>
「香積院」と称される
切妻妻入、大きい破風を持つ
1807年(皇紀2467)文化4年に再建されたもの
<総門>
<勅使門>
<天界橋>
<唐門>
方丈正面の平唐門
一間一戸の四脚門
屋根には、曲面をなす唐破風(からはふ)が用いられている
1841年(皇紀2501)天保12年の再建
<経蔵>
1859年(皇紀2519)安政6年
相国寺第120世 盈冲和尚により寄進される
高麗版一切経が納められている
<後水尾帝歯髪塚>
1653年(皇紀2313)承応2年
後水尾上皇が、焼失した大塔を再建されたとき、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められる
1788年(皇紀2448)天明8年
天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚が建てられたもの
<鐘楼>
「洪音楼」と称される袴腰付鐘楼
1545年(皇紀2205)天文14年の再建
<宣明(せんみょう)>
浴室のこと
蒸気浴をしながら、柄杓(ひしゃく)でお湯をかけて入浴したといわれる
1400年(皇紀2060)応永7年頃の創建
1596年(皇紀2256)慶長元年
現在の建物が再建される
2002年(皇紀2662)平成14年6月
復元修復される
「首楞厳経」によると
16人の菩薩が風呂の供養を受けた際、菩薩達が忽然として自己と水が一如であることを悟り、
跋陀婆羅菩薩が「妙觸宣明、成仏子住」と話されたと記されている
この故事にならい、禅宗寺院の浴室は、「宣明」と称され、跋陀婆羅菩薩が祀られる
禅宗では、「威儀即仏法」といい、日常の行いのすべてが修行の場でありる
浴室も、修行の上で「心」と「体」の垢を落とす重要な役割を果たしている
「宣明」を称せられるのは、皇室と将軍家に限られ、相国寺の浴室も足利義満が創建したことから「宣明」と称せられる
<法然水>
相国寺の地にあった功徳院神宮寺の庭池の水の名残
功徳院神宮寺には、浄土宗開祖 法然上人が住し、閼伽水(あかすい)をくんだといわれる井戸
記念碑も建てられている
<三門礎石>
勅使門から天界橋を渡り、法堂に向かうまでにある
1788年(皇紀2448)天明8年
天明の大火で焼失した三門跡に、数個の礎石が残されている
<仏殿跡>
三門跡から法堂に向かうまでにある
1551年(皇紀2211)天文20年
石橋の乱で焼失
再建されず、礎石だけが残されている
<七重大塔>
高さ109mもあった塔があったが落雷で焼失する
<宗旦稲荷社>
相国寺の内に住みついて、茶の湯の宗匠である千宗旦に化けていた古狐を祀った社
「宗旦狐」と名付けて、化かされて遊んだという故事が残る
<鎮守>
八幡宮
かつて御所八幡町にあったのを還座されたもの
<承天閣美術館>
相国寺と金閣寺などの関連寺院の文化財を収蔵展示される
1984年(皇紀2644)昭和59年の開館
<無学祖元墨蹟(国宝)>
<紙本墨画猿猴竹林図(重要文化財)>
六曲屏風
長谷川等伯の筆
<絹本墨画淡彩鳳凰図(重要文化財)>
林良の筆