青蓮院(しょうれんいん)は、知恩院の真北、粟田口にたつ寺院
三千院(梶井門跡)・妙法院とともに、天台宗三門跡寺院の一つ
多くの法親王や五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)が門主(住職)を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇る
江戸時代に御所の火災により仮御所となったことがあり、「粟田御所」と称される
門跡寺院らしい建物や庭園は王朝文化の遺構とされ、また「旧仮御所」として国の史跡に指定されている
門前に京都市登録天然記念物の巨大な楠(くすのき)が立っている
青蓮院の境内全域約1万坪が、「旧仮御所」として国の史跡となっている
<本堂(熾盛光堂)>
境内奥(南側)、宸殿の右に西面して建つ
方三間、宝珠の付いた小堂
秘仏本尊 熾盛光法(天台宗の四大秘宝の一つ)の曼荼羅が祀られている
青不動画像(国宝)・不動明王木像・薬師如来・日光月光菩薩・十二神将像・歓喜天像・
毘沙門天像・愛染明王像などが安置されている
<宸殿(しんでん)>
熾盛光堂の左に建つ最も大きな建物
門跡寺院特有な建物で、主要な法要が行われる
徳川家康の孫 東福門院(後水尾天皇女御)の御所を移転したもの
有縁の天皇の御尊碑と、歴代門主の位牌が安置され、宸殿前には、右近の橘・左近の桜が植えられている
「お得度の間」は、親鸞聖人が第三代門主 慈圓により得度をしたところ
入母屋造、桟瓦葺
「浜松図」の障壁画(重要文化財)がある
1893年(皇紀2553)明治26年に焼失後、復興された
<宸殿前庭>
杉苔に覆われた庭
本来は、白砂が敷かれていた
<小御所(こごしょ)>
本堂の北側、好文亭の対面に建ち、左側には東山の山麓が迫っている
入母屋造・桟瓦葺
「門葉記」門主伝によると、平安時代末期は、門主の居間であった
天明の大火によって御所が被害を受けたときに、青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇も用いられた建物
明治時代に焼失し、現在の建物は江戸時代中期の建物を移築されたもの
<華頂殿(かちょうでん)>
客殿(白書院)
築山泉水庭を望める
三十六歌仙額絵、木村英輝奉納の蓮の襖絵(60面)がある
<叢華殿(そうかでん)>
華頂殿の北にある
<大玄関(車寄せ)>
宸殿の先にある正式の玄関
孝明天皇が使用された輿が陳列されている
黒田正夕の筆の襖絵「日月松桜百鶴図」がある
<築山泉水庭>
華頂殿(客殿)と小御所、茶室の好文亭の三方の建物に面していて、見る方向により趣が異なる
室町時代の相阿弥の作庭
粟田山を借景にしてその山裾を利用した、龍心池(りゅうしんち)を中心とした池泉回遊式庭園
「跨龍橋(こりゅうのはし)」と称される反りの美しい石橋が架かり、洗心滝(せんしんのたき)がある
龍心池の対岸南に高く石積みした滝口があり、
東側には柔らかな曲線をえがいた築山が設けられ、その北側に好文亭が建つ
<一文字型手水鉢>
小御所近くの渡り廊下に面して築山泉水庭に置かれている自然石の手水鉢
豊臣秀吉の寄進といわれる
<霧島の庭(きりしまのにわ)>
叢華殿の東側の庭
江戸時代初期の小堀遠州の作庭
好文亭の裏側山裾斜面から一面に植えられている霧島つつじ(キリシマツツジ)が中心となっている花の名所
茶室 好文亭の周囲に、豊臣秀吉寄進の御輿型燈籠(みこしがたとうろ)と蓮華寺型燈籠(れんげじがたとうろう)が
巧みに置かれている
<好文亭>
霧島の庭に立つ書院式茶室
青蓮院を仮御所としていた後桜町上皇が学問所として用いられた
本格的な数寄屋造の建物で、四畳半の茶室 三部屋と、六畳の仏間、水屋などがある
<植髪堂(うえかみどう)>
親鸞聖人が、第三代門主 慈圓のもとで得度したときに剃髪した髪の毛が祀られている
納骨の仏壇が階下にある
植髪堂北側には、親鸞聖人の髪の一部を納めた遺髪塔が立っている
<日吉社>
好文亭の山側の裏山にある
天台宗宗護神の日吉社(十禅師社)が祀られている
京の出入口の粟田口にあり、かつて、東国へ向かう人はこの十禅師社に旅の無事を祈願したといわれる
<長屋門>
山門の手前右手に建つ門
明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの
<四脚門(御幸門)>
明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの
<巨大な楠(くすのき)5本(京都市登録天然記念物)>
築地の上に4本、境内の庭園に1本が生育している
幹から大枝を伸ばして、クスノキに特徴的な半球形のこんもりした樹冠をしている
樹齢は約800年で、樹高は最大のもので約26m
親鸞聖人の御手植ともいわれる
<青蓮院旧仮御所の石碑>
1788年(皇紀2448)天明8年
天明の大火により御所が炎上し、青蓮院が後桜町上皇の仮御所となる
明治天皇も度々訪れられた
仮御所となったことにより史蹟とされ、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡に指定されている
1933年(皇紀2593)昭和8年に石碑が建立される
<親鸞聖人童形像>
大玄関の前に立っている
このあたりに、親鸞聖人が得度されたとき、馬をつないだといわれる古松があったといわれる
昭和時代初期
大阪の信徒の願により造立された
<将軍塚 大日堂>
青蓮院の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内となっている
桓武天皇が平城京遷都にあたり、王城鎮護のため将軍の像が埋められたといわれる
<将軍塚 青龍殿>
青蓮院の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内 大日堂に隣接している
奥殿に、青不動明王(国宝)が安置されている
庭園もあり、市街の見晴らしが素晴らしい大展望台がある
<石碑「花山天皇陵参道」>
神宮道に立つ
<石碑「親鸞聖人得度聖地」>
台密関連の文化財なども多く所蔵されている
<絹本著色 不動明王ニ童子画像(国宝)>
「青不動」と称される
平安時代後期の仏画
掛幅装で、203.3cm×148.5cm
日本三大不動(園城寺(三井寺)の黄不動、高野山明王院の赤不動)の一つ
不動明王は、宇宙の全てを司る中心的な存在である大日如来の化身であり、熾盛光如来の強大な光の力を具化したもの
平安仏画の最高峰といわれ、古来より篤く信仰されている
奈良国立博物館に寄託されている
2009年(皇紀2669)平成21年9月18日〜12月20日
創建以来、初めてご開帳された
<熾盛光如来(しじょうこうにょらい)の光の曼荼羅>
本堂の厨子に、青蓮院の本尊として安置されている
約2m四方の掛軸に描かれ、大日如来の仏頂尊、仏の智慧そのものを表す「ボロン」が梵字(ぼんじ)で記されている
天台宗最大の秘法といわれる密教の修法「熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)」の本尊
熾盛光如来は、「光の仏」「摂一切佛頂王」「熾盛光佛頂」とも称される
北極星を偶像化したものともいわれ、大日如来の頭の上に座わられ、全身の毛穴から太陽の光にも似た強烈な
無量の光明を発生させる
天変地異や疫病の鎮静と国家安泰、国民の繁栄などが祈願されてきた
この如来を本尊とするのは、日本では青蓮院だけといわれる
創建当初のものは、第3世天台座主 円仁が中国 唐から持ち帰り、比叡山に法華総寺院を建立し勅許を得て
祀ったものといわれるが、戦乱で焼失する
現在のものは、安土桃山時代の作で、豊臣秀吉が奉納したといわれる
当時、顔料の群青は大変高価なもので、同じ重さの金やプラチナより貴重だったといわれる
2005年(皇紀2665)平成17年9月28日
天台宗開宗1,200年を記念し創建以来初めて、同年12月28日まで一般に公開される
ご開帳の間は、休むことなく読経が続けられていた
<掛軸>
1596年(皇紀2256)慶長元年の作
中央に梵字で表わした熾盛光如来、周囲に八大菩薩を表わしている
<浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)(重要文化財)>
宸殿の障壁画
1962年(皇紀2622)昭和37年
襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている
<歴史哲学書 愚管抄>
第三世門主 慈鎮和尚慈円が著者
慈円は、関白藤原忠通の子で、歌人としても著名
<第一世 行玄大僧正(ぎょうげんだいそうせい)>
天台座主第12世
藤原師実の子
1144年(皇紀1804)天養元年
鳥羽法皇の帰依を受けて第一世門主となる
1150年(皇紀1810)久安6年
鳥羽上皇の第7皇子 覚快法親王が行玄の弟子として入寺する
以後、皇族や五摂関家の子弟に限り門主を務める格式高い寺院となった
<第三代門主 慈圓(じえん)(慈鎮和尚)>
藤原兼実の弟
天台座主を4度も務めた高僧
青蓮院が最も隆盛した時期とされる
浄土宗の祖 法然上人や、浄土真宗の祖 親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護したとされる
親鸞聖人は9歳のとき、慈圓門主のもとで青蓮院で得度した
日本最初の歴史哲学者とされ「愚管抄」を残し、歌人として「拾玉集」を残す
<第十七代門主の尊円法親王>
伏見天皇の第六皇子
名筆家で、和風唐風を融合した書風は「青蓮院流」と称され、江戸時代に広く普及した和様書風「御家流」の源流とされる
<義圓>
後に、第153代天台座主を務め
その後、室町幕府第6代将軍 足利義教となる
<ライトアップ>
例年、春と秋に夜間拝観を実施し、庭園のライトアップが行われている
本尊の熾盛光如来が、光そのものであることから実施されている
宸殿前庭に、本堂 熾盛光堂から、本尊 熾盛光如来の梵字「ボロン」の形が光で映し出される
宸殿前庭は、数千個の青色の発光ダイオードが灯され幽玄な世界が創り出される
本堂 熾盛光堂から天空へ広がる光は、宇宙への広がりを示し
天空へ広がる青い光の色は、本尊 熾盛光如来を守護する青不動をイメージしたもの
<東山花灯路>
例年、春に東山一帯の散策路約4.6kmに、露路行灯約2400基が飾りつけられる
それに合わして、ライトアップや夜間特別拝観が行われる
<公文書書体 御家流(おいえりゅう)>
江戸時代の公文書の書体
第17代の門主(住職)の尊円法親王(そんえんほうしんのう)が創始者
尊円法親王は、伏見天皇の第6皇子で、名筆家として著名
尊円法親王の書風は「青蓮院流」と称される
<療病院>
1872年(皇紀2532)明治5年11月
青蓮院内に仮療病院が設けられ、患者の治療を行いながら医学生の教育が行われた
1880年(皇紀2540)明治13年7月
療病院が、上京区河原町通広小路上ル梶井町に移転する
その後、京都府立医科大学となる
<宮城野の萩>
西行ゆかりの萩
<五山の送り火>
将軍塚大日堂庭園内展望台からは五山が見える
<青木木米>
1805年(皇紀2465)文化2年
青木木米が青蓮院宮粟田御所の御用焼物師となる
<花の名所>
3月は、馬酔木(あしび)、4月中旬から躑躅(ツツジ)、8月の百日紅、9月の萩など