渉成園(しょうせいえん)は、東本願寺の約150m東にある飛地境内地
徳川家光によって現在の土地が寄進され、石川丈山により作庭された池泉回遊式の庭園
中国六朝時代の詩人 陶淵明の「園日渉而成趣」の詞にちなみ「渉成園」と名付けられる
周囲には、枳殻(からたち)が植えてあったことから「枳殻邸(きこくてい)」とも称される
春は梅や桜・馬酔木(あしび)・雪柳、夏は紫陽花(あじさい)や杜若・菖蒲・睡蓮、
秋には紅葉と四季折々の風情を楽しむことがでる
平安時代初期に、嵯峨天皇の皇子 左大臣 源融が、奥州塩釜の風景を偲んで、
難波から海水を運ばせて六条河原院苑池(ろくじょうかわらのいんえんち)を造営した遺構
付近には、「塩竈町」や「塩小路通」などの地名が残る
元は、鴨川までの広大な敷地があったが、現在は、約200m四方となっている
「印月池(いんげつち)」と称する広い池を中心に、池には島を浮かべて石橋や土橋で結び、
周囲には樹木を茂らせ、源融をしのぶ名所も作られ、平安朝の面影が再現されている
<渉成園十三景>
1827年(皇紀2487)文政10年
頼山陽により選ばれている
<高石垣(たかいしがき)>
正門を入って直ぐ目の前にある
長い切石など、様々な素材の石を組み合せて築かれている
<侵雪橋(しんせつきょう)>
<紫藤岸(しとうがん)>
<茶室 蘆庵(ろあん)>
二階建の茶室
前庭の露地には珍しい形の中門が立っている
1957年(皇紀2617)昭和32年の再建
<亀石井戸(かめいしいど)>
上から見ると亀のように石組みされている
現在は水が枯れているが、かつて茶会が催されたときに用いられていた井戸
<印月池(いんげつち)>
渉成園の中心となっている広い池
東山から登る月が水面に写るという
琵琶湖疏水から水が引かれている
<南大島>
印月池の島
かつて、鐘楼・臥龍堂があったことから「臥龍堂」と称される
<園林堂(おんりんどう)>
第21世 厳如の持仏堂
1957年(皇紀2617)昭和32年の再建
翌年、棟方志功により42面の襖絵が描かれている
<茶室 漱枕居(そうちんきょ)>
印月池の西南に、水上に乗り出すように建てられている
丸太柱で軽快な入母屋造・柿葺屋根
四畳半、三畳敷の座敷、土間から成る
三畳敷の座敷の東には、左右に手摺を付した縁が張り出している
四畳半は、池に面して、肘掛窓が2つあり、船の中にいるような感じを受ける
<大書院 ろう風亭(ろうふうてい)>
殿舎の南端の大書院
寄棟造桟瓦葺で、銅板葺の軒が出ている
<茶室 縮遠亭(しゅくえんてい)>
五松塢の高所に建つ
前面の土間から奥へ二畳台目向板、台目切の茶室、二本襖を隔てて長四畳が続く
そこから斜めに上段の間が連結されている
三畳敷の上段は、床を高く支えた舞台造りになっている
傍らには、石造宝塔塔身を利用した塩釜の袈裟型手水鉢がある
1884年(皇紀2544)明治17年頃の再建
<回棹廊(かいとうろう)>
五松塢の北から対岸に渡る、左右に低い高欄が付いた廊橋
桧皮葺・切妻造・唐破風屋根、天井部には掛け釘が設けられている
1884年(皇紀2544)明治17年頃の再建
<丹楓渓(たんぷうけい)>
回棹廊の北
楓の紅葉の名所
<傍花閣(ぼうかかく)>
園林堂の東側に、東向きに建てられている望楼を兼ねた門
二階建て入母屋造・柿葺屋根
左右の側面に、高欄・屋根付きの階段がある山廊が付設している
階上は、四畳半
<茶室 代笠席(たいりつせき)>
北部の生垣に囲まれた一画に、南向きに建つ
寄棟造桟瓦葺屋根
四畳半の二室が東西に並んでいる
<滴翠軒(てきすいけん)>
殿舎の北端に、西側の小池に南面して建っている
寄棟造桟瓦葺、軒廻りは銅板葺
1884年(皇紀2544)明治17年頃の再建
<臨池亭(りんちてい)>
滴翠軒の南側に、廊下で連なって、小池に向かって東向に建つ
八畳二間と入側から成る
東側の全面に一間の濡縁を水上に張り出している
池の右奥には小滝がある
1884年(皇紀2544)明治17年頃の再建
<多層塔>
源融の供養塔といわれる
<源氏物語>
渉成園は、源氏物語の主人公である光源氏のモデルとなった源融が、奥州塩釜の風景を偲んで造営した六条河原院の遺構
六条河原院のことは、「源氏物語」21帖「少女」の巻において、光源氏が35歳の年の8月に造営したことが記されている
源融が、難波から海水を運ばせて作らせたといわれる塩釜のことは、全く記されておらず、
源氏物語と奥州塩釜は無関係である