退耕庵(たいこうあん)は、東福寺の北寄りに建つ塔頭の一つ
平安時代前期の女流歌人 小野小町ゆかりの寺
中興の祖 安国寺恵瓊は、織田信長や豊臣秀吉に重用され、
豊臣秀吉の死後、石田光成、宇喜田秀家らと、退耕庵で徳川家討伐(関ヶ原の戦)の謀議が行われたといわれる
鳥羽・伏見の戦いのとき東福寺に長州藩の陣が置かれ、退耕庵は鳥羽・伏見の戦の戦死者の菩提寺となる
<本堂>
本尊の千手観音菩薩像、横手に小野小町百歳像が安置されている
<客殿(京都府指定文化財)>
1599年(皇紀2259)慶長4年
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)による再建
<書院>
<茶室 作夢軒>
書院の奥にある四畳半台目の茶室
織田信長や豊臣秀吉に重用された中興の祖 安国寺恵瓊による創建
豊臣秀吉の死後、安国寺恵瓊や石田三成、宇喜多秀家らの豊臣方が、関ヶ原の戦の謀議を行ったといわれる
護衛の武士が控えていたとされる「伏侍の間(ふせざむらいのま)」が隣接している
「忍び天井」もある
<庭園>
書院をはさんで南北の2つの庭からなる
北庭は、白砂と池がある池泉観賞式庭園
中国の西湖をイメージしたものといわれる
南庭は、書院に面した「真隠庭(しんにんてい)」
開山の性海霊見が、修行した中国の地を模して作庭されたといわれる全面が杉苔に覆われた枯山水庭園
奥には樹齢300年の霧島ツツジがある
<地蔵堂>
山門をくぐりすぐ右手にある
「小町寺」の額が掲げられている
玉章地蔵(たまずさじぞう)や、脇壇には、薬師瑠璃光如来像と十一面観音菩薩像が安置されている
天井には、天井絵が描かれている
<小野小町百歳井戸>
地蔵堂の横にある
老いた小野小町が、井戸の水面に写った自分の姿を見て嘆いたといわれる
「おもかげの 変らでとしの つもれかと たとえこの身に限りあるとも」と詠んだといわれる
傍の石標は1701年(皇紀2361)元禄14年のもの
<岸信介先生記念植樹>
<絹本著色性海和尚像(重要文化財)>
自賛がある
<紙本墨書永明智覚寿禅師垂誡2幅(重要文化財)>
東京国立博物館に寄託されている
<紙本墨書聖一国師忌斎幹縁疏(重要文化財)>
<玉章地蔵(たまずさじぞう)>
地蔵堂に祀られている地蔵菩薩坐像
像高約2mの土製
右手に錫杖、左手に宝珠を持っち白い顔をしている
「文張地蔵(ふみはりじぞう)」とも称され、体一面に仏様が描かれた紙が貼られている
「玉章(たまずさ)」とは「手紙」の意味で、胎内には、小野小町に宛てられた多くの恋文が納められていたといわれ、
多くの男性を苦しめた小野小町が、自ら償うためにこの地蔵菩薩像を作ったといわれ、
良縁・縁結び、悪縁を絶つご利益があるといわれる
江戸時代、東山区渋谷越えにあった小町寺に祀られていたといわれ、小町寺が廃寺となり、
1875年(皇紀2535)明治8年に退耕庵に移されたといわれる
脇壇には、薬師瑠璃光如来像と十一面観音菩薩像が安置されている
<小野小町百歳像>
北書院に、ガラスケースに入れられ安置されている
<掛け軸>
小町寺の様子や、洛中の霊場が描かれている
<安国寺恵瓊(あんこくじえけい)>
退耕庵第11世住持で、中興の祖とされる
安芸国(現在の広島県)の守護大名 武田信重の息子で、幼名は竹若丸
4歳のとき、毛利家に滅ぼされ、芸国の安国寺に逃げ、そこで仏道修行に励む
1553年(皇紀2213)天文22年に僧となる
退耕庵の竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子となり、法名「恵瓊(けえい)」と名乗る
その後、退耕庵に移り、禅僧としての修行をする
1569年(皇紀2229)永禄12年
32歳のとき、故郷の安国寺の住職となり、「安国寺恵瓊(あんこくじえけい)」と名乗るようになった
織田信長や豊臣秀吉に重用され、
石田三成と宇喜多秀家らと親しくなり、豊臣秀吉の死後、徳川家討伐(関ヶ原の戦)の謀議を行い、
関ヶ原の合戦で西軍に加担したが戦いに破れ、六条河原で小西行長、石田三成とともに斬首され、三条河原に晒された
建仁寺の僧が恵瓊の首を持ち帰り、方丈裏に手厚く埋葬したといわれる