東海庵(とうかいあん)は、JR嵯峨野線 花園駅の北にある臨済宗 大本山 妙心寺東海派の本庵の塔頭
妙心寺境内の中央部、主要伽藍の東側にあり、法堂の東側、大心院の南側、玉鳳院の西向いにある
妙心寺四派本庵の一つ東海派の本庵
<山門(京都府指定有形文化財)>
<方丈(本堂)(京都府指定有形文化財)>
桁行9間半(18.9m)、梁行6間半(12.7m)、一重、入母屋造、桟瓦葺
6室あり、室中正面に双折桟唐戸、室中と仏間の間に菱形模様の欄間がある
仏間内中央に亨堂がある
妙心寺第9世 雪江宗深筆の扁額「東海庵」が掛かる
室中の間中央に開山「悟渓宗頓木像」が祀られている
その右に歴代の位牌、左に観音菩薩像、「孝明天皇木像」が安置されている
1675年(皇紀2335)延宝3年頃の再建
<書院(京都府指定有形文化財)>
1675年(皇紀2335)延宝3年頃の再建
<東海庵庭園>
書院西庭、方丈前庭、方丈坪庭の3つの庭がある
それぞれ趣が違っている
1814年(皇紀2474)文化11年
いずれも、東睦宗補(とうぼくそうほ)(紀州田辺の海蔵寺15世)の作庭
・書院西庭「東海一連の庭」(国の史跡、名勝)
座観式枯山水庭園
不老不死の仙人が住むという蓬莱・方丈・瀛州の三神仙山の一連を枯山水で表現したもの
南北方向の長方形で、その中央付近に三尊石(中央が不動石、左は日天石、右は月天石)が立てられている
手前、天平石の白雲石(玉座石、台座石)は水受石で、右手下に小さな水分石がある
三尊石の左に龍門石、その手前に波切石(龍波石、波返石)が立てられている
庭の北に神仙蓬莱の築山が築かれており、北側から瀛州島・方丈島・蓬莱島の3島とされる
それぞれの島に三本の松が植えられている
手前には、北側から鶴石・平石の礼拝石(安居石)・亀頭尾石が置かれている
濡縁には、自然石から切り出した一文字手水鉢や橋杭手水鉢が置かれている
「東海一連の庭」とは、中国 臨済宗松源派の祖 松源崇岳に連なる松源禅の系譜を意味しているといわれる
・書院南庭
書院と方丈との間の四方正面の7坪の坪庭
東西方向の長方形の壺庭になっており、周囲を縁廊下が囲んでいる
一面に白砂が敷かれ、大小7個の庭石が直線的に置かれている
中央の小石から波動のような砂紋が拡がり、わずか7個の石と白砂で宇宙が表現されている
・方丈南庭「白露地の庭(はくろじのにわ)」
築地塀に囲まれた一面に白砂が敷かれ、東西方向に直線の砂紋が引かれ、
東端手前の雨落ちの中に大型の棗形(なつめがた)手水鉢が置かれただけの枯山水庭園
借景として、庭の右手方向に仏堂、法堂の屋根が取り入れられている
儀式のための空間とされる、方丈南庭の本来の姿
庭は南側にわずかに傾斜し、築地塀も南へ傾斜して造られ、遠近法の手法により、庭を広く見せている
<庫裏(京都府指定有形文化財)>
桁行13.8m、梁行13.1m、一重、切妻造、妻入、吹き抜け天井、桟瓦葺
入口の土間に竈の焚口がある
江戸時代初期の建立
<鐘楼(京都府指定有形文化財)>
<悟渓宗頓木像>
方丈の室中の間中央に開山 悟渓宗頓木像が祀られている
<孝明天皇木像>
<紙本水墨画「瀟湘八景図(しょうしょうはっかいず)」4幅(重要文化財)>
狩野元信の筆
中国湖南省の景勝地の四季観が描かれている
<孝明天皇宸翰徽号勅書(しんかんきごうちょくしょ)(重要文化財)>
孝明天皇の直筆
<絹本著色「十六羅漢図」(重要文化財)>
中国 元時代の蔡山(さいざん)の筆
<「花鳥図(かちょうず)」(重要文化財)>
中国 明時代の陳子和(ちんしわ)の筆
<「水墨山水図」24面>
書院の障壁画
江戸時代の狩野派の片山尚景(かたやまなおかげ)の筆
<「青衣の人」>
井上靖の著
東海庵が出てくる京都ゆかりの著書
<四派四本庵(しはしほんあん)>
妙心寺の3,500ほどの末寺が必ず属する4つの宗派
室町時代、塔頭の龍泉庵、東海庵、聖澤院、霊雲院が創建される
妙心寺第9世 雪江宗深の法嗣から、四派の景川宗隆(龍泉派)、悟渓宗頓(東海派)、特芳禅傑(霊雲派)、東陽英朝(聖澤派)が出る
これにより、四派四本庵による運営体制が確立し、この四派により、妙心寺一山の全権が掌握され、住持も決定された
雪江宗深は、この4人を評価して「禅は景川、徳(福)は悟渓、寿(頌)は特芳、才は東陽」とした
<東海派>
妙心寺第9世 雪江宗深の弟子 妙心寺11世 悟渓宗頓(ごけいそうとん)が派祖
東海庵を本庵とする
妙心寺の末寺の半数ほどが属している
悟渓宗頓は、尾張の人で、東海、関東を中心に勢力を伸ばして「東海派」と称された
独秀乾才、仁川詔喜、一宙東黙、海山元珠、海南玄条、単伝士印、玉浦宗珉など、多くの高僧を輩出した
<徳の悟渓>
雪江宗深が派祖 悟渓宗頓を評した尊称
夏の暑い日に、悟渓禅師は法友とともに琵琶湖畔を行脚していた
暑さに耐えかねた法友たちは琵琶湖で水浴を行ったが、悟渓禅師は「徳分を児孫に残そう」と身体を拭くだけにしたといわれる
それにより、東海派の寺院は、水に不自由しないといわれる