善想寺(ぜんそうじ)は、六角通大宮にある浄土宗の寺院
平安時代中期の上皇の御所であった四条後院の跡地に建つ
地蔵堂には、「泥足地蔵」「汗出し地蔵」「身代り地蔵」と称される最澄が自ら彫ったといわれる地蔵菩薩像が祀られている
<本堂>
善光寺式阿弥陀三尊が安置されている
四条後院跡による神仏習合の名残で「菊の御紋」が装飾されており、鳳凰の彫刻、御神鏡などが共に祀られている
<地蔵堂>
山門の横にある
伝教大師 最澄が自ら彫った守り本尊とされる地蔵菩薩が祀られている
<石仏 阿弥陀如来>
墓地入口に安置されている
台座をあわせた像高は90cm
高さ1.6m、厚さ70cmの自然石の大きな光背を背に座っている
平安時代後期に、四条後院の上皇により造立され信仰を集めた
白川の赤石と称される花崗岩が石仏に使われた時期から推定して、平安時代後期の造立といわれる
建武の戦のときには、土中に埋めて守られたといわる
<兜潟弥吉の墓碑>
兜潟弥吉(かぶとがたやきち)は、京都相撲最後の横綱
江戸時代には、京都・東京・大阪・名古屋など全国の主要都市に相撲の運営組織がおかれ、
神事や武芸として相撲が行われていた
京都相撲は、明治時代初期には、総勢450名以上が所属する組織だった
兜潟弥吉は、伏見出身で、京都相撲の最後の横綱となる
孝明天皇からは「兜潟、あぐらをかいて楽にするがよい」とのお言葉を受け、あぐらを勅許されたといわれる
京都相撲を再建するために相撲協会の設立に尽力をしていた
1882年(皇紀2542)明治15年2月2日、病気で死去する
<池坊家元歴代の墓碑>
1658年(皇紀2318)万治元年
江戸時代初期の六角堂の僧で池坊家32世 2代目 池坊専好が祀られてから、
1908年(皇紀2568)明治41年
池坊家42世 専正師まで、歴代家元が祀られている
池坊家32世 2代目 池坊専好は、専応花道の宗匠で、後水尾天皇に召され立花を指導、宮中での立花会の判者、法橋に叙された
<善光寺式阿弥陀三尊>
本堂に祀られている
中尊と脇侍の背後を1枚の船形光背(ふながたこうはい)が覆い、
脇侍は、両掌を胸前で水平に重ねる独特の印を結んでいる
<地蔵菩薩像>
延暦寺の開祖 伝教大師 最澄が自ら彫った一刀三礼の霊像で、大師一代の念持仏(守り本尊)とされる
大師が亡くなられた後は、滋賀県坂本村に祀られていた
その後、1587年(皇紀2247)天正15年3月23日、正誉上人によって善想寺に遷され、地蔵堂に祀られた
これにより、浄土宗が、天台宗浄土教の後継であることを明確に示めされたといわれる
泥足地蔵尊、汗出し地蔵尊、身代わり地蔵尊と称されて信仰されている
<法然上人像>
本堂内に安置されている
<善導大師像>
本堂内に安置されている
<正月> 1月1日〜7日
<春彼岸法要> 3月春分の日
<盆施餓鬼会> 8月10日〜16日
<秋彼岸法要> 9月20日〜26日
<地蔵尊回願法要> 毎月23日
<平安京四条後院跡>
境内は、関白太政大臣 藤原頼忠の邸宅があった場所にあたる
天元の大内裏火災のときに、円融天皇が一時皇宮にされ、譲位後に居所とされ「四条後院」と称された
元弘・建武の戦で、御殿は荒廃する
<泥足地蔵尊、身代わり地蔵尊>
滋賀県坂本村に祀られていた頃
日照りが続いた時期に、百姓の作兵衛が三日三夜、雨が降るように地蔵菩薩に祈念した
すると大雨が降り、まわりの百姓たちは田植えを終えることが出来たが、作兵衛は、腹痛のため植えつけが出来なかった
しかし翌朝、作兵衛の田んぼも、すでに田植えが終わっていた
不思議に思いながらも、地蔵菩薩に雨のお礼参りにいったところ、地蔵菩薩の腰から足にかけて泥にまみれておられ、
腹痛の作兵衛に代わって地蔵菩薩が田植えをされたといわれ、「泥足地蔵尊」「身代わり地蔵尊」と信仰されるようになった
<汗出し地蔵尊、身代わり地蔵尊>
1808年(皇紀2468)文化5年の秋
堺町の勘兵衛が、妻の難産に、善想寺の山門の横に祀られていた地蔵尊に一日一夜お祈りをした
妻が安産となり、勘兵衛が地蔵菩薩にお礼に行ったところ、お顔一面に玉のような汗が流れていた
それ以来「汗出し地蔵尊」「身代わり地蔵尊」と称され信仰された
<「諸国霊場 御詠歌全集」(1930年(皇紀2590)昭和5年11月発行)>
京都六地蔵尊御詠歌の番外として善想寺泥足地蔵尊の御詠歌が掲載されている
洛中六角大宮 善想寺 泥足地蔵尊
「さかもとを はるばるいでて ぜんそうじ はちすのうえに のらぬことなし」