田邊朔郎(たなべさくろう)は、琵琶湖疏水や蹴上発電所の工事に携わった土木工学者
琵琶湖疏水工事は、日本人が中心になって建設された最初の近代土木事業
蹴上発電所は、日本最初の水力発電施設
角倉了以とともに「水運の父」と称される
<田邊朔郎立像>
蹴上疏水公園
1957年(皇紀2617)昭和32年11月
市民の寄付により建立される
28歳でアメリカ合衆国に調査のために旅立った際の姿を表している
<田辺朔郎紀功碑>
蹴上疏水公園
「工學博士 田邊朔郎君 紀功碑」と刻まれている
碑文は山本竟山の書
礎石の中に、石の唐櫃を設けられて、疏水工事などの資料を銅管内に封入して収められている
1923年(皇紀2583)大正12年7月19日
田邊朔郎の還暦を記念し、その功績をたたえるために、賀茂川と高野川の合流地点の出町剣先に建てられる
1941年(皇紀2601)昭和16年
現在の地の蹴上疏水公園に移される
1982年(皇紀2642)昭和57年
この碑の北隣に、田辺朔郎の銅像が建立された
<インクライン上の船溜の第一疏水殉職者慰霊碑>
「一身殉事 萬戸霑恩(いっしんことにじゅんずるは ばんこおんにうるおし)」の碑
田邊朔郎の自筆
1902年(皇紀2562)明治35年
田邊朔郎が、工事で殉職した17名のために私費で建立した
<真如堂石灯籠>
元三大師堂の前にある石灯籠
1905年(皇紀2565)明治38年
琵琶湖疏水工事の総責任者 田邊朔郎への感謝の意を込めて、地元北白川の人たちにより贈られたもの
<京都−宮津車道開削>
1881年(皇紀2541)明治14年5月24日
京都府議会は、京都と宮津を結ぶ車道の開削について可決、11月より着工
1889年(皇紀2549)明治22年8月完成
山陰街道を北上し、福知山市河守から志高・久川・由良・長尾峠・宮津へと通じる
京都と日本海を結ぶ大動脈として、物資の流通、軍港建設の資材運搬に貢献する
田邊朔郎も携わっていたといわれる