灰屋紹益(はいやじょうえき)は、江戸時代前期の豪商・文人
本阿弥光益(本阿弥光悦の甥)の息子で、幼少の頃に、豪商灰屋の養子となる
<歌人>
和歌を、烏丸光広や飛鳥井雅章、松永貞徳に学ぶ
後水尾上皇から添削を受けたともいわれる
<文筆>
随筆「にぎはひ草」を著する
<書道>
本阿弥光悦に学んだといわれる
<茶の湯>
<香道>
<蹴鞠>
蹴鞠を、飛鳥井雅章に学ぶ
1634年(皇紀2294)寛永11年
上洛した徳川家光に、二条城で蹴鞠を披露する
1667年(皇紀2327)寛文7年3月
徳川家綱に江戸城で披露する
病弱だった八条宮智忠親王(後水尾上皇の従兄弟)に健康法として蹴鞠を勧めたことをきっかけに親しくなり、
八条宮が進めていた桂離宮の造営に尽くした功績が認められ、法橋に任ぜられた
<高台寺>
鬼瓦席(おにがわらせき)と遺芳庵(いほうあん)
共に、書院の奥に建つ、吉野太夫と灰屋紹益好みの茶室
<常照寺>
比翼塚
灰屋紹益と吉野太夫のお墓
灰屋紹益の歌碑もある
<吉野太夫>
22歳のとき、六条柳町の遊里(島原)の名妓 吉野太夫26歳を、公卿 近衛信尋と争って、千三百両で身請けする
父 佐野紹由から勘当され下京に閑居することになる
後日、佐野紹由が、雨にあって傘を借りに入った家の夫人のもてなしや振舞が礼にかなっているのに感服し、
その夫人が吉野太夫であることを知って、勘当を許したといわれる