貝原益軒(かいばら えきけん)は、江戸時代中期の本草学者(薬学者)、儒学者、博物学者
筑前国福岡藩士の息子として生まれ、18歳から生涯ほとんど福岡藩藩主 黒田家に仕えた
教育・医学・本草学・農学・天文学・地理学・教育・経済・民俗・歴史などの各分野でなどで業績を残した
藩費による7年間の京都留学で本草学(中国の薬物学)や朱子学などを学ぶ
朱子学者 松永尺五・木下順庵、博物学者 中村惕斎・向井元升、
儒医 黒川道祐・山崎闇斎・松下見林、林鵞峰、公卿 伏原賢忠、本草家 稲生若水、同藩の宮崎安貞らと交友を深める
教育・医学・本草学・農学・天文学・地理学・教育・経済・民俗・歴史などの各分野でなどで業績を残した
妻 貝原初子(号:貝原東軒)は、和歌や楷書に優れ、貝原益軒と供に遊行し、紀行文などを助けた
著書は、60部270巻ほど著した
黒田藩献上書
<筑前国続風土記> 1703年(皇紀2363)元禄16年献上
<黒田家譜>
本草書
<花譜(かふ)> 1694年(皇紀2354)元禄7年
<菜譜(さいふ)> 1704年(皇紀2364)宝永元年
<大和本草(やまとほんぞう)>
1709年(皇紀2369)宝永6年刊行
和装本
中国の「本草綱目」に訓点を付け、自らの経験から実用的観点からの記述を加えた
本草学史上で開拓的で、日本で最初の最も体系的な著書とされる
朱子学書3部作
青年期に陽明学も学び、朱子学に変わる
<自娯集>
1712年(皇紀2372)正徳2年
<慎思録(しんしろく)>
学問の功は思にありとして、教義・道徳・教育等の意見を著した
<大疑録(たいぎろく)>
晩年には、朱子学の観念性「理気二元論」に疑問を抱き「気一元論」を説いた
和学
祖先が備前国(岡山県)吉備津神社の神官であったことから、和学修得の必要を説き「神儒平行不相悖論」を唱えた
儒教敬天思想に基づく人間平等観の思想をもつ
教育書・道徳書
<養生訓>
格言「心を平にして気を和にする。これ身を養い徳を養う工夫なり」
<大和俗訓>
格言「高きに登るには必ず麓よりし、遠きにゆくには必ず近きよりはじむる理あれば」
<和俗童子訓 5巻>
日本最初の体系的教育書といわれる
教える者は、まず自ら学ぶべきこと、子供の世界と大人とを同列とすべきではない、などの識見を述べている
これを元に後世の者により「女大学」が著せられている
<五常訓>
<家道訓>
<君子訓>
<益軒十訓>
<和漢名数> 1678年(皇紀2338)延宝6年
<続和漢名数> 1695年(皇紀2355)元禄8年
算数の重要性が説かれている
紀行文
<京城勝覧>
1706年(皇紀2366)宝永3年
貝原益軒は、藩費による7年間の京都留学や、24回ほど京都に訪問したといわれる
洛中の名所と、洛外の17日間のモデルコース仕立てで名所が紹介されている
幕末まで約150年間も販売されていたといわれる
<西北紀行 2巻>
1713年(皇紀2373)正徳3年
山城国・丹波国・丹後国・若狭国・近江国の紀行文
<己巳紀行(きしきこう)>
天橋立などを旅行した記録
<和州巡覧記>