阪東妻三郎(ばんどうつまさぶろう)は、歌舞伎俳優、映画俳優
端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ「阪妻(ばんつま)」の愛称で呼ばれた
サイレント映画からトーキーへの転換期に、双方で高い実績を残した
竹薮だった太秦の地を切り開き、阪東妻三郎プロダクションが太秦に最初の撮影所を設立
5人の子供のうち、長男の田村高廣、三男の田村正和、四男の田村亮の3人が俳優、二男の田村俊磨は実業家
端正な顔立ちと、身長172cmの体格
サイレント映画時代から培った動きと表情を駆使する高い演技力を持つ
殺陣の見せ場では、両脚を大きく広げて踏ん張った体勢で、手に持った刀をゆっくりと眼前に下ろし、
首を左右にゆらゆらと動かす仕草は「バンツマ」の代名詞とされる
<阪妻映画祭>
1975年(皇紀2635)昭和50年
阪東妻三郎の二十三回忌にあたることから、当時の邦画5社が協力して、阪東の代表作が全国各地で巡回上映された
発案者は、全興連副会長で大旺映画社長 山田敏郎
当時の邦画各社は、常に競合関係にあり、画期的なことだったといわれる
<四大スタア>
1942年(皇紀2602)昭和17年の大映創立記念作「維新の曲」で出演した4人のスター
阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎
<剣戟スタア>
阪東妻三郎、市川右太衛門、月形竜之介とされる
阪東妻三郎の立ち回りは「悲壮豪壮天下一品」と称され破天荒なものだったといわれる
「剣戟王(けんげきおう)」とも称される
<主な主演作品>
雄呂血(1925)
無法松の一生(1943)
王将(1948)
破れ太鼓(1949)
あばれ獅子(1953)
など
<マキノ映画製作所>
日本映画の父 牧野省三が京都に創立したときに入社
等持院の境内の撮影所の大部屋俳優となる
<阪東妻三郎プロダクション>
1925年(皇紀2585)大正14年9月
25歳で、太秦に設立
1926年(皇紀2586)大正15年5月
竹薮だった太秦の地を切り開き、太秦駅の西300mの蜂岡に
自社の撮影所「阪東妻三郎プロダクション太秦撮影所(後の東映京都撮影所)」を建設
太秦地区の初めての撮影所となる
1936年(皇紀2596)昭和11年12月に解散する
<大映>
1942年(皇紀2602)昭和17年
新興キネマ、大都映画、日活製作部門が合併して、大日本映画製作株式会社が設立される
創立記念作「維新の曲」(牛原虚彦監督)は、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、嵐寛寿郎の四大スターが大ヒットとなる
<松竹京都>
1949年(皇紀2609)昭和24年
大映から移籍
撮影中に体調を崩し脳内出血により死去する
<二尊院>
お墓がある