石川丈山(いしかわじょうざん)は、江戸時代前期の武士・漢詩人
徳川家康に仕えたが、大坂夏の陣の後に武士を辞め、詩仙堂を創建し一生の棲み家とした
<詩仙堂>
一生の棲み家として建立し、隠棲生活を送った
詩仙の間
日本の三十六歌仙にならい、林羅山の意見を求めながら、中国の漢晋唐宋の各時代から詩人を36人を選び、
狩野探幽・狩野尚信に36人の肖像を描かせ、詩仙の間の四方の壁に掲げた
これが「詩仙堂」の名前の由来となる
石川丈山自らも各詩人の歌を墨書きして、その額を掲げた
添水(そうず)
「山田の僧都(そうず)」は、「鹿おどし」と称される大きな音が出る仕掛けにより、鹿や猪の進入を防ぐためのもの
石川丈山が考案したといわれ、静寂な庭のアクセントになっており石川丈山好み
<酬恩庵>
酬恩庵庭園(全体が国の名勝)
方丈庭園は、三面よりなる枯山水庭園
石川丈山・松花堂昭乗・佐川田喜六の合作といわれる
<蓮華寺>
本堂に、石川丈山の筆による寺額が掲げられている
「鶴亀の庭園」は、石川丈山や、狩野探幽が協力して作庭したといわれる
石川丈山の篆額(てんがく)、木下順庵の撰文の「今枝重直の碑」がある
<渉成園>
東本願寺の飛地境内で、「枳穀邸」とも称される
本願寺第13代 宣如上人の願いによって作庭する
<八大神社>
社頭横額は、石川丈山の筆
<黒田家>
初代黒田正玄と親交があった
のれんは、石川丈山の筆で「大津 茶ひしやく屋 正玄」と記されている
<漢詩>
師の藤原せいかに高い評価を受ける
閑適の詩が多いといわれる
七言絶句「富士山」は、詩吟初心者の練習によく用いられる
「仙客来り遊ぶ雲外の嶺 神龍栖み老ゆ洞中の淵 雪は丸素の如く煙は柄の如し 白扇倒にかかる東海の天」
<詩集「覆醤集(ふしょうしゅう)」>
上中下3巻
京都所司代 板倉重宗が、すぐれた詩が消えて行くのを危惧し、嫌がる石川丈山を説きふせて編纂させたといわれる
この中に、七言絶句「富士山」も含まれている
<書>
特に隷書を得意とする
林羅山は「このような隷書の名手は本邦初めてである」と評価している
54歳の時、朝鮮の使者と筆談を交わしており、「日東の李杜なり」と賞賛されている
<茶の湯>
精通しており、煎茶道の元祖であったともいわれる
<「六忽銘」>
63歳の時、詩仙堂での日常生活の6つの規律としてを作る
板に彫って台所に掲げていたといわれる
火を粗末に取り扱うな
盗賊を防ぐことを忘れるな
朝早く起きることをいとうな
粗食をいとうな
倹約と勤勉を変えてはならぬ
掃除をおこたるな
<鹿威(ししおどし)>
「僧都(そうず)」「添水」とも称される
石川丈山が考案したといわれる