富岡鉄斎(とみおかてっさい)は、明治時代・大正時代の文人画家・儒学者
日本最後の文人といわれる
生涯を文人として貫き、「日本最後の文人」といわれる
学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた
主に中国古典を題材にしている
画風は、文人画を基本に、大和絵・狩野派・琳派・大津絵など様々な絵画様式と、創造的な独自性を持っている
「自分は意味のない絵は描かない」
「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったといわれる
死の直前には、「画家も長生きしなければいいものは描けない。
この頃になって、どうやら思うような絵が描けるようになった」と言ったといわれる
作品は一万点以上あるといわれる
<阿倍仲麻呂明州望月図(重要文化財)>
1914年(皇紀2574)大正3年の作
辰馬考古資料館蔵
<円通大師呉門隠栖図(重要文化財)>
1914年(皇紀2574)大正3年の作
辰馬考古資料館蔵
<二神会舞図>
東京国立博物館蔵
<旧蝦夷風俗図>
1896年(皇紀2556)明治29年の作
東京国立博物館蔵
<銀閣寺の新書院の襖絵>
大広間の襖絵
<貴船神社 奥宮本殿>
富岡鉄斎による扁額が掲げられている
<檀王法林寺>
富岡鉄斎が自らが描いた「主夜神尊図」が奉納された
<富岡鉄斎書の手水鉢(長楽寺)>
本堂への石段脇におかれている
<豊光寺の玄関の扁額「善隣」>
<豊光寺の退耕塔の碑文>
<橋弁慶山の前懸>
椿石霊鳥図綴錦(ちんせきれいちょうずつづれにしき)
原画は、富岡鉄斎の作の清荒神所蔵の衝立で、原画と同寸法織成されている
<祇王寺 本堂>
富岡鉄斎などの尽力によりに建立される
<車折神社>
1888年(皇紀2548)明治21年から1893年(皇紀2553)明治26年
宮司を務める
富岡鉄斎の作品が100点以上残されており、財団法人 車軒文庫により管理されている
本殿の扁額、裏参道入口の社号標、表参道脇の車折神社碑は、富岡鉄斎の筆
富岡鉄斎が生前に用いた筆を2000本以上納めた筆塚がある
<瓜生山 白幽子厳居之跡>
江戸時代 文禄年間(1592年〜1596年)頃
隠士 白幽子(はくゆうし)が、山中の岩窟に住み常に金剛経をよみ、数百年生きた「白幽子仙人」「白川の仙人」ともいわれる
富岡鉄斎の揮毫による「白幽子巌居之蹟」の七字の石碑が立っている
<お墓>
大雲院の祇園閣の背後にお墓がある