池坊専好(いけのぼうせんこう)は、桃山時代から江戸時代中期にかけての立花師・華道家元
桃山時代には、豪壮で華麗な建築に合わせるように、立花も大型で複雑なものへと変化し、
池坊専好が、見事な立華を立て確立していく
二世 池坊専好は、立華の大成者で、
後水尾天皇に召し出されて立花を指導し、宮中における立花会の判者にもなる
当初は「立華(たてはな)」と称され、
池坊専好による様式の完成以降は、「立花(たてはな)」が「立花(りっか)」と称されるようになる
生年:1536年(皇紀2196)天文5年
没年:1621年(皇紀2281)元和7年
華道家元 池坊三十一世
初代 池坊専好は、立花に儒学の教えを取り入れ、それまでの立花に画期的な変化をもたらした
1594年(皇紀2254)文禄3年
豊臣秀吉が前田利家邸に赴いたときに、池坊専好が三之間に座敷飾を施し、
桃山時代の雄大なスケールの大砂物を立てて「池坊一代の出来物」と称賛される
1599年(皇紀2259)慶長4年
大雲院で催した百瓶華会(ひゃくへいかかい)が絶賛される
<前田邸の大砂物>
1594年(皇紀2254)文禄3年9月
前田利家邸の三之間に立てた雄大なスケールの立花
大きな盆に砂を張り、その上に花を立てたもの
4間床(7.2m)にかけた4幅対の軸物の猿猴20匹が、なびいた松の枝にと止まっているように見えたといわれる
平安時代の洲浜台(すはまだい)が原型になっているといわれる
生年:1570年(皇紀2230)元亀元年
没年:1658年(皇紀2318)万治元年
華道家元 池坊三十二世
二世 池坊専好は、立花の大成者で、立花に仏教をの教えを取り入れた
立花好きの後水尾天皇は、親王や側近の公家達と、たびたび立花御会を催され、
池坊専好は、宮中に召されて指導的な役割をはたした
池坊の拠点が、下京の町衆の中心的存在であった六角堂にあり、公家の教養から、富裕な町人の間にも普及し始める
1629年(皇紀2289)寛永6年
後水尾天皇が、公家・僧侶・町人までを参加させた宮中立花会を催し、
池坊専好が判者となる
作品図が、池坊、曼殊院、陽明文庫などに残されている
<花形絵>
後水尾天皇の退位後、仙洞御所で催された立花会での池坊専好の作品を写生したもの
後世の立花の手本とされましる
<立花之次第九十三瓶有(重要文化財)>
1628年(皇紀2288)寛永5年から1635年(皇紀2295)寛永12年の間に
禁中紫宸殿や小御所、高松宮好仁親王邸、関白 近衛信尋邸、一条兼遐邸などで立てた立花・砂之物の花形絵91図と
池坊専好の伝授を受けた妙法院 尭然親王と、南坊が立てた立花2瓶の図
<お墓 善想寺>
生年:1680年(皇紀2340)延宝8年
没年:1734年(皇紀2394)享保19年
三世 池坊専好は、伝書の整備と伝授された式法を改訂する
室町時代に成立した最も古いいけばなの様式
当初は「立華(たてはな)」と称され、
池坊専好による様式の完成以降は、「立花(たてはな)」が「立花(りっか)」と称されるようになる
<特徴>
木を山、草を水の象徴として、一瓶の中に自然の景観美、この世の森羅万象が表される
立花では、草木の調和を通して、自然の摂理を知ることが大切にされている
基本形が成立した当初は、真・副・副請・真隠・見越・流枝・前置というの7つの役枝で構成されていた
立花には、伝統的な型を持つ「立花正風体」と、既成の型を持たない「立花新風体」がある
<立花正風体(りっかしょうふうたい)>
池坊の伝統的な美感と、7つあるいは9つの役枝からなる構造を基本として、草木の出生にならって構成される
また、複雑で多彩な構成により、自然の面影や草木の風格が表される
明治時代に、規範として定められた
<立花新風体(りっかしんぷうたい)>
型の美ではなく、表現内容を重視した立花の新しい様式
伝統的な美感と構造を基本としつつ、花材の伸びやかさ、新鮮さ、艶やかさを持つ
また、様々な花材が用いられ、意外性や対照効果のある取り合わせにより、明るさ、鋭さ、際立ちなどの美が表現される
1999年(皇紀2659)平成11年
当代の家元池坊専永により発表される
<善想寺>
墓地に、池坊家32世 2代目 池坊専好から、池坊家42世 専正師まで、歴代家元が祀られている