服部嵐雪(はっとりらんせつ)は、江戸時代前期の俳諧師で、松尾芭蕉の高弟、雪門の祖とされる
芭蕉三哲・芭蕉十哲の一人
禅の修行を続け、内向的で柔和な温雅さな人柄が句にも表れ、質実な作品が多い
嵐雪の門(雪門)からは優れた俳人が輩出し、大島蓼太の時代には勢力を著しく拡大した
禅の修行を続け、内向的で柔和な温雅さな人柄が句にも表れ、質実な作品が多い
松尾芭蕉に才能を高く評価されており、芭蕉三哲の一人
1692年(皇紀2352)元禄5年3月3日の桃の節句に
松尾芭蕉に、「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」といわれた
松尾芭蕉は、「両の手に桃と桜や草の餅」とも詠み、服部嵐雪と宝井其角(たからいきかく)との実力は拮抗していた
服部嵐雪は、松尾芭蕉とは共鳴せず、晩年の松尾芭蕉とはほとんど一緒にいなかった
1694年(皇紀2354)元禄7年10月22日
しかし、江戸で松尾芭蕉の訃報を聞き、その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、
天野桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった
義仲寺では墓前にひざまずき、「この下に かくねむるらん 雪仏」と詠んだ
松尾芭蕉の没後は、江戸俳壇は、服部嵐雪と宝井其角とで二分していたといわれる
<辞世の句>
「一葉散る 咄ひとはちる 風の上」
<枕屏風>
「布団着て寝たる姿や東山」
東山三十六峰のおだやかな景観を詠んだ歌
<猿蓑>
「出替りや幼ごころに物あはれ」
<遠のく>
「梅一輪いちりんほどの暖かさ」
<萩の露>
「名月や煙はひ行く水の上」
<虚栗>
「我や来ぬひと夜よし原天の川」
<続虚栗>
「濡縁や薺こぼるる土ながら」
「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」
<杜撰集>
「魂まつりここがねがひのみやこなり」
<曠野(あらの)>
<炭俵>
<續猿蓑>