服部嵐雪(はっとりらんせつ)(Hattori Ransetsu)

江戸時代前期の俳諧師

生年:1654年(皇紀2314)承応3年
没年:1707年(皇紀2367)宝永4年10月13日
出身:江戸湯島生まれ

幼名:久馬之助
通称:治助(はるすけ)・孫之丞・彦兵衛
別号:嵐亭治助・雪中庵・不白軒・寒蓼斎・玄峯堂・吏登斎など

流派:松尾芭蕉の高弟、雪門の祖

お墓:本教寺(東京都豊島区)

 服部嵐雪(はっとりらんせつ)は、江戸時代前期の俳諧師で、松尾芭蕉の高弟、雪門の祖とされる

 芭蕉三哲・芭蕉十哲の一人

 禅の修行を続け、内向的で柔和な温雅さな人柄が句にも表れ、質実な作品が多い

 嵐雪の門(雪門)からは優れた俳人が輩出し、大島蓼太の時代には勢力を著しく拡大した

【服部嵐雪の歴史・経緯】


【服部嵐雪の作風】

 禅の修行を続け、内向的で柔和な温雅さな人柄が句にも表れ、質実な作品が多い

 松尾芭蕉に才能を高く評価されており、芭蕉三哲の一人

 1692年(皇紀2352)元禄5年3月3日の桃の節句に
 松尾芭蕉に、「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」といわれた

 松尾芭蕉は、「両の手に桃と桜や草の餅」とも詠み、服部嵐雪と宝井其角(たからいきかく)との実力は拮抗していた

 服部嵐雪は、松尾芭蕉とは共鳴せず、晩年の松尾芭蕉とはほとんど一緒にいなかった

 1694年(皇紀2354)元禄7年10月22日
 しかし、江戸で松尾芭蕉の訃報を聞き、その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開き、
天野桃隣と一緒に芭蕉が葬られた膳所の義仲寺に向かった
 義仲寺では墓前にひざまずき、「この下に かくねむるらん 雪仏」と詠んだ

 松尾芭蕉の没後は、江戸俳壇は、服部嵐雪と宝井其角とで二分していたといわれる

【服部嵐雪の句集】

 <辞世の句>
 「一葉散る 咄ひとはちる 風の上」

 <枕屏風>
 「布団着て寝たる姿や東山」
 東山三十六峰のおだやかな景観を詠んだ歌

 <猿蓑>
 「出替りや幼ごころに物あはれ」

 <遠のく>
 「梅一輪いちりんほどの暖かさ」

 <萩の露>
 「名月や煙はひ行く水の上」

 <虚栗>
 「我や来ぬひと夜よし原天の川」

 <続虚栗>
 「濡縁や薺こぼるる土ながら」
 「木枯らしの吹き行くうしろすがた哉」

 <杜撰集>
 「魂まつりここがねがひのみやこなり」

 <曠野(あらの)>
 <炭俵>
 <續猿蓑>


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