喜撰法師(きせんほうし)は、平安時代初期の真言宗の僧・歌人
六歌仙の一人で、小倉百人一首にも選ばれている
生没年不詳
山城国乙訓郡で生まれ、出家後に、醍醐寺に入り、後に、宇治山に隠棲し、やがて仙人になったといわれる
桓武天皇の末裔とも、橘諸兄の孫で、橘奈良麻呂の子ともいわれる
「喜撰」の名前は、紀貫之の変名ともいわれる
<古今和歌集>
紀貫之が「古今和歌集」の仮名序の中で、
「宇治山の僧 喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。いはば、秋の月を見るに、暁の雲にあへるがごとし。
詠める歌、多くきこえねば、かれこれをかよはしてよく知らず」と喜撰のことを記している
<歌学書「倭歌作式」>
別称「喜撰式」
喜撰法師が作者ともいわれる
現在では、平安時代後期の偽書(仮託書)とされている
<「無名抄」>
宇治市の御室戸の奥に喜撰の住みかの跡があり、歌人必見であると記されている
<喜撰ヶ岳>
宇治市の東部にある宇治山のことを称する
<喜撰洞>
喜撰ヶ岳の中腹に小さな洞窟があり、そこに隠棲していたともいわれる
<歌舞伎「喜撰」>
平安時代の六歌仙を扱った1831年(皇紀2491)天保2年に江戸中村座で初演された歌舞伎舞踊「六歌仙容彩」の第三幕の題目
喜撰法師が女性を口説く踊りで、坂東三津五郎家が代々得意とした
喜撰法師の歌として2首だけが伝えられている
<「古今和歌集」巻十八雑下983>
「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」 小倉百人一首8番(題しらず 喜撰法師)
(翻訳)
私の庵は都の東南にあって、このように平穏に暮らしているというのに、
世を憂いて逃れ住んでいる宇治山だと、世間の人は言っているようだ
<玉葉和歌集400>
「木の間より見ゆるは谷の蛍かもいさりに海人の海へ行くかも」
<宇治神社>
「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」の歌碑が立てられている
<小倉百人一首文芸苑 亀山地区>
歌碑が立てられている