大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)(Rengetsu Ootagaki)

江戸時代後期の尼僧・女流歌人・陶芸家

生年:1791年(皇紀2451)寛政3年1月8日
没年:1875年(皇紀2535)明治8年12月10日
享年:85

父親:伊賀国上野城代家老 藤堂良聖(とうどうよしきよ)
養父:知恩院譜代 大田垣光古(おおたがきてるひさ)

俗名:誠(のぶ)
法名:蓮月
通称:蓮月尼(れんげつに)、菩薩尼、陰徳尼

出身:京都

 大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)は、 江戸時代後期の尼僧・女流歌人・陶芸家

 晩年は、神光院の茶所に間借りして隠棲し、境内の清掃と陶器制作で過ごした

【大田垣蓮月の経緯】

【大田垣蓮月の歌道】

 幕末維新の時代の代表的な女性歌人

 税所敦子と共に、桂園派を代表する

 若年から歌道に親しみ、
 上田秋成、香川景樹に教えを受け、勤王家 六人部是香(むとべよしか)に入門する

 小澤蘆庵の歌論書「布留の中道」などから歌風を学んだ

 歌風は、平明温雅、流麗で女性らしい繊細な叙景歌が多い

 茶の湯、いけばな、舞唄にも優れていた

 歌友
 橘曙覧(たちばなあけみ)、野村望東尼(のむらもとに)、穂井田忠友、村上忠順、高畠式部、上田ちか子、桜木太夫や
維新の志士などと親交があった


 <蓮月高畠式部二女和歌集>
 1868年(皇紀2528)明治元年の出版


 <家集「海人の刈藻(あまのかるも)」>
 1871年(皇紀2531)明治4年
 近藤芳樹編
 「山ざとは松の声のみ聞きなれてかぜふかぬ日はさびしかりけり」など


 <蓮月全集>
 村上素道編


 <辞世の句>
 ねがはくはのちの蓮(はちす)の花のうへにくもらぬ月をみるよしもがな

【大田垣蓮月ゆかりの地】

 <太田垣蓮月仮寓跡
 醍醐寺三宝院の南側、醍醐小学校の東南に石碑が立つ


 <神光院
 晩年を西賀茂の神光院の茶所で10年間の余生を過ごし、85歳で亡くなる
 茶室「蓮月庵」
 山門を入った左側にある旧栖茶所で10年間を過ごした草庵
 平屋建、4間3間、5畳の居間、3畳の台所、土間には窯がある
 「蓮月尼旧栖之茶所」と刻まれた石碑が立っている

 歌碑
 「ただならぬ枕の草に虫鳴ひて秋あはれなるわが庵かな」
 「暮れぬとて帰る家路もそこはかと夏草しげし西賀茂の里」
 「願くはのちの蓮はちすの花の上へに曇らぬ月を見るよしもがな」

 富岡鉄斎の筆の「蓮月尼肖像画」も所蔵されている


 <牛若ひろば
 大田垣蓮月の歌碑 「あすもきて 見んと 思えば 家づとに 手折るも をしき 山さくら花」


 <島原
 島原大門の出口の柳の木を見て詠われる
 「なつかしき やなぎのまゆの 春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ」


 <丸太町橋>
 私財で鴨川に丸太町橋を架けた


 <西方寺
 小谷墓地
 境内の西にある墓地
 大田垣蓮月尼のお墓が、南側地域の、墓地の入口に近い木の根元にある


【その他】

 <蓮月焼>
 生活費のために、手作りした陶器
 手捏ねの茶器に、自詠の歌を釘で彫り焼いたもの
 京土産として人気があり、後に贋作も出回ったといわれる


 <時代行列
 江戸時代婦人列に若き日の姿で登場する


 <富岡鉄斎
 出家後、幼い富岡鉄斎を侍童として、我が子のように可愛がり、
 富岡鉄斎の人格形成に大きな影響を与えたといわれる


 <慈善活動>
 京都の飢饉のときには寄付するなど勤しみ、飢饉救済の活動など慈善活動も行った


【京都検定 第1回2級】

【京都検定 第9回2級】

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