冷泉為相(れいぜいためすけ)は、鎌倉時代後期の公卿・歌人
百人一首を編纂したとされる歌人 藤原定家の孫で、冷泉家の祖
藤原北家 藤原道長の6男 藤原長家を祖とする御子左家(みこひだりけ)は、冷泉為相の代に、異母兄 二条為氏の二条家と、
京極為教の京極家、冷泉家の3つに分かれる
相続争いで鎌倉幕府への訴えに、度々鎌倉へ出向いたときに、
鎌倉において武士達に和歌連歌を教授したり歌壇を指導し、「藤ヶ谷式目」を作るなどして鎌倉連歌の発展に貢献する
執権 北条貞時や娘婿の将軍 久明親王が開催した歌会に、たびたび参加している
京都では、
1303年(皇紀1963)嘉元元年の嘉元百首
1303年(皇紀1963)嘉元元年4月の伏見院仙洞歌合
持明院殿における京極派の歌合
1319年(皇紀1979)文保3年頃の文保百首 などに参加している
<勅撰入集>
「新後撰和歌集」などの勅撰和歌集に、計65首が入集されている
<編集>
私撰集「柳風和歌抄」「拾遺風体和歌集」を編集している
<後世の歌集>
「藤谷和歌集」「為相百首」
<格言>
「しぐれ行く雲まによわき冬の日のかげろひあへずくるる空かな」(「風雅和歌集」)
<藤谷家>
冷泉家の分家
家名は、藤原為相が、鎌倉の藤ヶ谷(ふじがやつ)に別宅を持っていたことに由来する
<鎌倉幕府将軍家>
娘の一人が、鎌倉幕府8代将軍 久明親王に嫁ぎ、久良親王を生んでいる