遍昭僧正(そうじょうへんじょう)は、平安時代初期の僧・歌人
桓武天皇の皇孫とされるが、父親は既に臣下に降りていた大納言
仕えていた仁明天皇の崩御により出家して天台宗の僧として僧正となる
紀貫之が選んだ六歌仙、藤原公任が選んだ三十六歌仙の一人で、歌僧の先駆となった
「古今和歌集」に16首+連歌一首、以下の勅撰和歌集に35首+連歌一首が入集されている
遍昭の歌風は出家前と出家後で変化したといわれる
出家前には、情感あふれる歌も詠んでいる
出家後は、紀貫之が評したように、物事を知的にとらえ客観的に描き出す歌を多く作った
<六歌仙>
紀貫之が選んだ遍昭僧正・在原業平・文屋康秀・喜撰法師・小野小町・大友黒主の6人
<三十六歌仙>
藤原公任が選んだ36人
<古今和歌集>
16首+連歌一首が入首されている
仮名序において、紀貫之は「近き世にその名きこえたる人」として
「歌のさまを得たれどもまこと少し。たとへば絵にかける女を見て、いたづらに心を動かすが如し」と評価した
(遍昭僧正は、歌の風体や趣向はよろしいが、真情にとぼしい)
藤原定家は、それこそが歌であると評価したといわれる
<小倉百人一首>
12番「天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」
遍昭が、仁明天皇に仕えていた頃の宮中で、
毎年11月に行われる儀式での踊り「五節の舞」を見て作られたものといわれる
美しい乙女たちが舞う姿を天女に例えた、とても趣のある和歌とされる
小倉百人一首21番は、遍昭僧正の子 素性法師の歌
「今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな」
<家集「遍昭集」>
後世に他撰されたもの
三代集から遍昭作の歌をひいて編集したもの
<遍昭僧正御墓>
大石道沿いの、遍昭僧正が創建した元慶寺と福應寺の中間程の住宅街の中に墳丘がある
<元慶寺>
遍昭僧正の創建
歌碑「天津風 雲の通い路 吹きとじよ 乙女の姿 しばしとどめむ」(古今和歌集)(小倉百人一首)がある
遍昭僧正の子 素性法師の歌碑も並んで立っている
<福應寺>
遍昭僧正の創建
<雲林院>
仁明天皇の皇子 常康親王より譲り受けて別当を兼ねた
元慶寺の別院として、文芸交流を行った
歌碑「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ 乙女の姿 しばしとどめむ」(古今和歌集)(小倉百人一首)がある
惟喬親王や小野小町らと歌を贈答するなど、多くの文化人と交流した歌僧で、
在俗時代の色好みの逸話、天狗を調伏した話など、後世さまざまな逸話が生まれている
「大和物語」「今昔物語集」「宝物集」「十訓抄」「続本朝往生伝」などに記されている
<深草少将>
小野小町とも歌を贈答した交流があり、百夜通い伝説の深草少将のモデルになったともいわれる
<歌舞伎舞踊「積恋雪関扉」>
江戸時代の製作
良岑宗貞の名前で登場する