高浜虚子(たかはまきょし)は、明治時代から昭和時代にかけての俳人・小説家
正岡子規の弟子で、正岡子規が友人とともに創刊した俳句雑誌「ホトトギス」の発行を引き継ぎ、
高浜虚子の俳句作品と俳句観が多くの俳人の支持を受け、「ホトトギス」は俳壇の最有力誌として隆盛した
俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱え、
俳句は、「客観写生」「花鳥諷詠」の詩であるという理念を掲げた
生涯に20万句を超える俳句を残した
1902年(皇紀2562)明治35年
正岡子規が死去し、俳句の創作を辞め、その後は小説の創作に没頭していたが、
親友 河東碧梧桐が、五七五調に囚われない新傾向俳句を唱えたことで、
1913年(皇紀2573)大正2年
俳句は伝統的な五七五調で詠まれるべきであると唱え、俳壇に復帰する
季語を重んじ平明で余韻があるべきだとし、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐と対立した
1927年(皇紀2587)昭和2年
俳句こそは「花鳥諷詠」「客観写生」の詩であるという理念を掲げた
固定した文体を持たず、一句の中に知性では割りきれないあいまいな響きを残すのを好んだといわれる
松尾芭蕉の偉大な功績を認めていたが、松尾芭蕉のわざとらしい演劇的身振りは好まなかった
俳句において季語が発揮する強力な象徴機能を重視し、無季の俳句を徹底して排除したといわれる
高浜虚子の俳句作品と俳句観が多くの俳人の支持を受け、「ホトトギス」は俳壇の中心となった
「ホトトギス」からは飯田蛇笏、水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、川端茅舎、松本たかしなどを輩出している
「顔見世を 見るため稼ぎ 溜めしとか」
京都の冬の顔見世興行を年一回の贅沢として楽しむ京都の庶民の姿を描いたとされる句
「蛇逃げて 我を見し眼の 草に残る」
「早苗とる 水うらうらと 笠のうち」
「夕影は 流るる藻にも 濃かりけり」
「遠山に 日の当たりたる 枯野かな」
「春風や 闘志抱きて 丘に立つ」
<主な句集>
虚子句集
五百句
五百五十句
六百句
虚子俳話
句日記
<小説集>
鶏頭
柿二つ
俳諧師
虹
<大原の里>
紀行文「時雨をたづねて」では、時雨を求めて紅葉の名所を逍遥している
<西芳寺>
総門の横に立つ歌碑「禅寺の苔をついばむ小鳥かな」
<落柿舎>
高浜虚子の生前最後の自筆句碑
「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」
<去来墓>
向井去来のお墓がひっそりと立っていることを歌った句碑「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」