吉野太夫(よしのだゆう)は、安土桃山時代から江戸時代初期の京都の遊女に代々伝わる名跡
初代から10代目まで名取をされたといわれるが、2代目以外の人物像については詳細不明
美貌と教養と諸芸を兼ね備える
六条三筋町七人衆の筆頭
夕霧太夫、高尾太夫(江戸吉原)とともに「寛永三名妓」といわれる
楼前の桜を見て「ここにさへ さぞな吉野は 花盛り」と詠ったことから「吉野」と名付けられたといわれる
馴染み客には、後陽成天皇の皇子で、近衛信尹の養子である関白 近衛信尋や、豪商 灰屋紹益がいた
とても利発な女性だったといわれる
和歌、連歌、俳諧、書道、茶道、香道、立花に優れ、琴、琵琶、笙なども上手く、貝合わせ、囲碁、双六などにも強かったといわれる
<逸話>
井原西鶴の「好色一代男」では、
「なき跡まで名を残せし太夫。前代未聞の遊女也。いづれをひとつ、あしきともうすべきところなし。情第一深し」と記している
中国 明にまで、才色兼備が称えられ「東に林羅山、西の徳子よし野」といわれていたとされる
1627年(皇紀2287)寛永4年には、中国 明の呉興から恋文が届いたといわれる
六条廓の全太夫の集まりがあったとき
18人の太夫が、絢爛豪華な贅を尽した衣装で参例していたところ、
吉野は、前夜に上客に付き合って朝方まで起きていたことから、まだ寝ていて、
起こされた吉野は、慌てずに、寝乱れ髪に黒い小袖を着ておっとりと現われて、すまして上座に座った
その寝ぼけ顔の美しさに、太夫たちは、しばらく言葉を失って見とれていたといわれる
吉野に魅了された七条の小刀鍛冶駿河守金網の弟子が、やっとの思いで小金53匁を貯めて島原に行くが、
太夫の相手をする身分格ではなく、門前で断られる
それを知った吉野は不憫に思い、ひそかに招き入れて思いを遂げさせてやるほど、情に厚かったといわれる
これにより、吉野は訴えられ、遊郭を辞めることになり、豪商 灰屋紹益に身請けされる
<夫 灰屋紹益>
22歳のとき、26歳の吉野太夫を、公卿 近衛信尋と争って、千三百両で身請けする
父 佐野紹由から勘当され下京に閑居することになる
後日、佐野紹由が、雨にあって傘を借りに入った家の夫人のもてなしや振舞が礼にかなっているのに感服し、
その夫人が吉野太夫であることを知って、勘当を許したといわれる
結婚して12年後、吉野は38歳で病死してしまう
灰屋紹益は愛着のあまり、吉野の骨灰を飲み干し、
「都をば 花なき里となしにけり 吉野を死出の山にうつして」と詠ったといわれる
<常照寺>
日乾上人に帰依し、朱門を寄進したといわれる
灰屋紹益と吉野太夫のお墓、灰屋紹益の歌碑もある
4月第3日曜日には、吉野太夫を偲んで吉野太夫花供養が行われ、島原の太夫ら多くが参拝する
<高台寺>
吉野太夫と灰屋紹益好みの茶室鬼瓦席(おにがわらせき)と遺芳庵(いほうあん)が、書院の奥にある
<吉野太夫花供養>
4月第3日曜、常照寺にて
二代目 吉野太夫を偲んで供養が行われる
源光庵から常照寺の本堂まで太夫の道中があり、太夫献茶や太夫墓前祭が行われる
<時代祭の時代行列>
江戸時代婦人列に、芸姑の頃の姿で登場する