島原(しまばら)は、日本最初の公許遊廊で、京都の六花街の一つ
現在の西本願寺の西の地区にあたる
江戸時代は、公許の花街として発展するが、遊郭としてのみではなく、
和歌や俳諧などの文芸活動も盛んに行われ、島原俳壇も形成され、高級社交場となっていた
現在、茶屋営業は行われていないが、
多くの文人に親しまれた角谷(すみや)は、「角谷もてなしの文化美術館(重要文化財)」として、輪違屋も遺構が残っている
かしの式などの伝統的な行事も残っている
<二条柳馬場>
豊臣秀吉により、京都の再興のために、二条柳馬場に花街「柳町」が創設される
足利将軍家の旧臣 原三郎左衛門、豊臣秀吉家臣 林又一郎により営まれる
日本最初の官許の廓として賑わう
当初は、万里小路二条(までのこうじにじょう)、押小路北の3町にあり、上ノ町・中ノ町・下ノ町が存在した
「押小路の廓(柳のくるわ)」、正式には「新屋敷」と称された
入口の道の両側に柳が植えられ、「柳町」とも称された
<六条坊門>
その後、京都所司代 板倉勝重により、二条城築城のために、六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移される
二条柳馬場は、人家が増えたこと、御所に近かったことも移転理由になった
六条坊門は、北は五条通、南は魚棚、西は新町、東は室町
かつてあった3町(雪下駄町・鍵屋町・的場町)を3筋にしたことから、「六条三筋町」「六条柳町」「新屋敷」と称された
<島原>
1640年(皇紀2300)寛永17年
京都所司代 板倉宗重により、風紀上の問題として急遽、現在の地、当時の朱雀野村(しゅしゃかのむら)に移される
京都の西端にあり、正式名称は「西新屋敷傾城町(西新屋敷)」と称される
急な移転騒動が、島原の乱の直後であったため、それになぞらえて「島原」と称されるようになる
島原の範囲は、東の大門から西は千本通までの東西約195m、
北は中央市場青果棟の南側道路から南は正面通り南一筋目の道路までの南北約242m、面積は約47200㎡ある
周囲を塀で囲まれ、入口は、東北角の大門のみであったが、その後、西側にも大門が設けられた
彫は、周囲450間(約820m)の長さで、1間半幅(約2.7m)あった
さらに内側に、土塀が建てられていた
島原大門の横には、番所が置かれた
中央には、東西の通り「道筋(どうすじ)」があり、南北にも三筋の通りが作られた
一筋目に交差する北側の筋に中之町、その南側の筋に上之町、
二筋目に交差する北側の筋に中堂寺町(大宮丹波口上ル)、その南側の筋に太夫町(西洞院五条通下ル)
三筋目に交差する北側の筋に下之町、その南側の筋に揚屋町の6町が置かれた
町には、傾城屋(けいせいや)(置屋)、揚屋(あげや)、茶屋などのほかに、小間物問屋、素人屋(日用雑貨)などが建ち並んでいた
<島原大門(しまばらおおもん)(京都市登録有形文化財)>
公許遊廊島原の正門で、花屋町通の東の端に立つ
一間一戸、本瓦葺、切妻造の高麗門
大門の両脇には「出口の柳」が植えられており、芸妓との別れを惜しんだ「さらば垣」がめぐらされていた
大門の近くには、島原に入るかどうか思案した「思案橋」、衣服を整えた「衣紋橋」があった
1729年(皇紀2389)享保14年
堀と塀で囲まれていた島原地域の東辺北寄りに建てられた門
当初は、冠木門であったといわれ、その後、塀重門、さらに腕木門となった
1766年(皇紀2426)明和3年
「道筋」と称されていた道の東端である現在の地に移される
1854年(皇紀2514)嘉永7年8月
島原地域一帯が火事にみまわれ、東側の大半が類焼し、大門も焼失する
その後、簡易な冠木門で再建される
1867年(皇紀2527)慶応3年5月
現在の神社仏閣なみの本格的な高麗門として再建される
本柱上の屋根のほか後方の控柱上にも小屋根をのせた高麗型
1986年(皇紀2646)昭和61年
京都市登録有形文化財として登録される
高麗門(こうらいもん)は、左右の控柱の上にも屋根がある門
冠木門(かぶきもん)は、冠木を二柱の上方に渡した屋根のない門
塀重門(へいじゅうもん)は、表門と庭との間にある塀に設けられ、左右に方柱があって笠木はなく、二枚開きの扉
腕木門(うでぎもん)は、二本の本柱を立てて冠木を差し、腕木および出し桁で屋根を支えた門
<島原西門跡>
当初、島原の入口は東の大門のみだったが、西側中央部にも高麗門型の西門が設けられた
西門の横にも柳が植えられた
2度の事故により倒壊して、現在は、石碑が建立されている
<揚屋 角屋(重要文化財)>
揚屋(あげや)は、太夫・芸妓などをかかえず、置屋から芸妓等を呼んで宴会を催す場
建物は、揚屋建築唯一の遺構として重要文化財に指定されている
幕末には、西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬などの勤王志士たちが軍用金調達のため、豪商を招いて会談を行っていた
現在は、「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開もされている
<石碑「久坂玄瑞の密儀の角屋」>
角屋の前の通りの角に石碑が立てらえている
<置屋 輪違屋(京都市指定有形文化財)>
置屋は、太夫・芸妓などをかかえて、揚屋(あげや)や顧客の要望に応じて派遣をしていたところ
創業は、元禄年間(1688年〜1704年)
1857年(皇紀2517)安政4年
現在の建物が再建される
一階南半分の居室部分と、一階北半分と二階の客室部分
客室は、十数室あり、二階の「傘の間」と「紅葉の間」が主要な座敷
<島原歌舞練場跡記念碑>
明治時代初期に、上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていた
昭和時代初期に、現在の地の中之町に移転し、本格的な劇場施設として新築される
歌舞会にあたる養柳会により運営され、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催されていた
1996年(皇紀2656)平成8年
島原貸席お茶屋業組合の解散に伴い、歌舞練場も解体される
<大榎>
島原歌舞練場跡記念碑のそばに立っている
歌舞練場解体時まで、根元に稲荷社が祀られていた
樹齢約200年、樹高約15m、幹周約2m
<大銀杏>
島原住吉神社の旧境内地の北端に建っていた
樹齢約300年、樹高約20m、幹周り約3.5m
明治維新
住吉神社が廃社になるが、神木として残される
1903年(皇紀2563)明治36年
住吉神社が再興されるが、境内は、大銀杏のところまで至らなかった
1930年(皇紀2590)昭和5年
大銀杏根元に弁財天が祀られる
<島原住吉神社>
島原の西北の千本通に、南面して立つ
江戸時代には、島原の鎮守の神さんとして信仰され、
例祭では、島原太夫や芸妓などが参列する練りものが盛大に行われていた
明治時代初期に一度、廃社になり、伝統ある島原の鎮守社を復活させようと狭い境内ながら復興された
<幸天満宮>
島原住吉神社の境内社
<東鴻臚館跡>
平安時代初期に平安京の東西に設けられた鴻臚館の跡
朝廷が渤海国の使節客を歓待し、日本の国威を示すために林邑楽を演奏したり、詩文の会などを催していた
920年(皇紀1580)延喜20年頃
廃止される
島原の史跡跡などに7つの石碑が立てられ、歌が記されている
<島原大門>
「なつかしき やなぎのまゆの 春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ」(大田垣蓮月)
島原大門の出口の柳の木を見て詠われる
<島原歌舞練場跡記念碑>
「宝暦の むかしの夢は 見は見つれ 夜半の投節 聴くよしもなし」 吉井勇
<大銀杏>
「嶋原の 外も染るや 藍畠」 服部嵐雪
<島原西門跡>
「花の色は いひこそ知らね 咲きみちて 山寺遠く 匂ふ春風」 富士谷成章
<島原住吉神社>
「住吉の 松の常盤に 春はなほ 色香あらそふ 神垣の梅」 富士谷成章
<幸天満宮>
「曇りなく 神の光も やはらぎて ちりづか山に 交る瑞垣」 富士谷成章
<東鴻臚館跡>
「白梅や 墨芳しき 鴻臚館」 与謝蕪村
<島原の太夫(しまばらのたゆう)>
島原における最高位の遊女
容姿・品格・茶道・華道・歌道・京舞・文学など、あらゆる教養を身につけていたといわれる
四条河原で六条三筋町の佐渡島庄五郎が、猿楽を教えていた遊女の中で、最も優れた容姿と芸をもつ遊女を
「能太夫」と称したのが由来といわれる
慶長年間(1596年〜1615年)
四条河原で六条三筋町の傾城が、女歌舞伎を催したときに、優れた遊女を「太夫」と称した
太夫は、天皇に謁見が許される正五位の官位を授かった
御所に入れる容姿で、
おすべらかしの髪に櫛、八本の笄(こうがい)、花簪(はなかんざし)を挿す
歯にはお歯黒、紅は下唇にだけにさす
十二単をもとにした御所風の内掛、帯を前に結ぶ前帯に、禁色の赤襟を返す
三枚歯の高下駄の三つ足(高さ約17cm)を履き、内八文字という独特の内股の歩き方で歩く
髪飾りなどの重さは約5kg、着物の総重量は40kgほどになる
寛永年間(1624年〜1644年)の名妓 二代目の吉野太夫徳子や、
慶安の八千代太夫が有名
<妓楼(ぎろう)>
遊女をおいて、お客を遊ばせたお店
妓楼には、上の格から順に局・茶屋・揚屋・女郎屋があった
<妓品(ぎほん)>
傾城(けいせい)妓女、遊女のこと
上の格から順に、太夫(たゆう)、天神(てんじん)、鹿恋(かこい)、端女郎(はしじょろう)、引舟(ひきぶね)と分かれていた
「天神」は、かつての揚代が25匁であり、北野天神さんの縁日が25日だったことに由来する
<太夫道中>
指名された太夫が、置屋から揚屋へ内八文字を踏んで練り歩く様子
三枚歯の高下駄「三つ足」を履いて、重さ45kgにもおよぶ豪華な衣装に身を包む
差掛け傘に入り、禿(かむろ)、引舟(ひきぶね)、やりて、夜具と枕を運ぶ下男らの付き人を従える
天神は、禿、下男を引き連れた
1971年(皇紀2631)昭和46年に16年ぶり
1999年(皇紀2659)平成11年11月に28年ぶり
2004年(皇紀2664)平成16年11月5年ぶりに、
嶋原商店街で太夫道中が行われる
<かしの式>
太夫が、置屋から揚屋に呼ぶときの儀式
太夫が一人一人、お客と対面する「顔見せ」が行われる
盛装した太夫が盃台の前に坐り、盃を廻すと仲居が太夫の名前を呼んで披露した
太夫は、言葉をしゃべる事は許されず、仕種と立ち振る舞いとまなざしでアピールする
置屋が揚屋に太夫を貸すことから「かし(貸し)の」と称された