稲畑勝太郎(いなばたかつたろう)は、大正時代・昭和時代前期の起業家
フランスのリヨンに留学し、染色理論や応用化学、最先端染色技術を修得し、稲畑染料店を創業する
フランスから帰国時に、リュミエール兄弟が発明した撮影・スクリーン映写機「シネマトグラフ」を持ち帰り、
京都で日本最初の映写を成功させ、大阪で日本初の映画興行を行った
<西陣織>
1885年(皇紀2545)明治18年
フランスから帰国後、京都染工講習所の所長を務め、欧州で学んだ最先端技術の指導にあたる
独自の染色法の開発や織機設備の輸入に取り組み、京都の織物・染色産業の発展に貢献する
技術普及のために官民をあげた京都織物会社の設立に奔走し、数多くの織物会社や染色工場が誕生し、
京都経済の活性化に尽力した
1890年(皇紀2550)明治23年
西陣の地に、稲畑染料店を創業
合成染料の輸入販売や、国産染料の開発などを行った
<日本での映画誕生>
1896年(皇紀2556)明治29年
オーギュスト・リュミエールは、シネマトグラフの初公開に成功し、リヨンの理工学校時代の同級生の稲畑に紹介する
1897年(皇紀2557)明治30年
リュミエール社から、スクリーン映写機「シネマトグラフ」2台とそのフィルム、シネマトグラフの興行権を得て、
映写技師兼撮影技術者 コンスタン・ジレルと一緒に帰国
神戸港から京都へ戻る
同年1月下旬
京都電燈株式会社の長谷川技師や島津製作所の協力を得て、変圧器を作り、
当時の京都電燈株式会社の庭(後に、立誠小学校跡の敷地内)で、一週間以上の試写実験を行い、日本最初の映写を成功する
同年2月15日
稲畑と三木福輔、奥田弁次郎らは、最初の有料上映を大阪の南地演舞場で開催した
上映装置類、フィルム、興行権など全てを横田万寿之助、横田永之助の兄弟に譲る(後の横田兄弟商会、横田商会となる)
稲畑は、フランスから連れ帰ったコンスタン・ジレルと共に、さまざまな日本の風景や日常などを撮影し、
日本最初の映画撮影に携わった
<稲畑染>
国産染料の開発などを行い、特に海老茶色は「稲畑染」と称され、当時の女学生の制服の袴にも採用された
日露戦争のときには、軍服用の「カーキ染」を考案する