<合槌稲荷神社>
後一条天皇の勅命で名刀「小狐丸」を制作した三条宗近の相槌を打った狐(稲荷大明神)が祀られている
<粟田神社>
参道の登口の左側に立つ鍛冶神社あたりに、三条宗近が住んでいたといわれる
謡曲「小鍛冶」の舞台にもなっている
<故事 「合槌稲荷」>
三条小鍛冶宗近が、一条天皇の勅命によって国家鎮護の太刀を作ることになったとき、伏見稲荷大社に祈願したところ
稲荷明神の使者である狐が現れ、三条宗近の相槌を勤めて見事な刀を仕上げることができたといわれる
<能「小鍛冶(こかじ)」>
五番目物
作者は不明
シテ:稲荷明神(いなりみようじん)の使の霊狐(れいこ)
ワキ:三条小鍛冶宗近
前ジテ:童子
内容:故事 「合槌稲荷」が演じられる
<名刀「狐丸」の逸話>
1561年(皇紀2221)永禄4年9月10日 川中島合戦
武田信玄陣営に、伊那小笠原一族の部将 若狭守 小笠原長詮が、三条宗近の名刀「狐丸」を持って出陣した
上杉軍との激しい戦いで、小笠原長詮は、顔も傷つき、髪はざんばらになり、兜も落とされ、最期かと思われた時、
突如、側臣の桑山茂見が、「我はこそは新羅三郎義光の苗裔、小笠原若狭守長詮なり」と叫びながら太刀をかざして暴れ狂い
その間に、小笠原長詮は、雑兵に紛れて落ち延びることができた
しかし、戦乱中に、名刀「狐丸」は叩き落されて、所在が不明となってしまう
戦の後、所々に塚が作られ死骸などが埋められたが、その一つの塚に毎夜、狐が多く集まってきていた
不思議に思った里人たちが、その塚を掘り返してみると、人骨に混ざって名刀「狐丸」が埋まっていたといわれる