羅生門(らしょうもん)は、芥川龍之介の処女作の小説
荒廃した平安京の羅城門を舞台に、生きるために悪事を行う人間のエゴイズムを描いた作品
平安時代
飢饉や天変地異が続いていた都
荒廃した羅生門の下で、職を失った若い下人が、盗賊になろうかと思いつめるが、
そんな勇気もなく、途方にくれていた
羅生門の2階に人の気配を感じて昇っていってみると、いくつもの遺体が捨てられていた
その中で、老婆が、若い女の遺体から髪を引き抜いているを見つけ、
激しい怒りをおぼえて、刀を抜いて老婆に襲いかかろうとする
老婆は、抜いた髪でカツラを作って売ろうとしており、「生きるための仕方のことだ」と正当化し、
「この女も、生前に蛇の干物を干魚だと偽って売り歩いており、生きるために許してもらえるだろう」という
下人は、老婆の言葉を聞いて勇気が湧き出し、老婆を押さえつけて着物をはぎ取り、
「私もこうしなければ、餓死をしてしまう」と言い残し闇の中へ消えていった
ある日の暮方の事である。
一人の下人、羅生門の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。
ただ、所々丹塗の剥げた、大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。
羅生門が、朱雀大路にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうなものである。
それが、この男のほかには誰もいない。
何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う災わざわいがつづいて起った。
そこで洛中のさびれ方は一通りではない。
旧記によると、仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、路ばたにつみ重ねて、
薪の料しろに売っていたという事である。
洛中がその始末であるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。
するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲すむ。盗人とが棲む。
とうとうしまいには、引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くという習慣さえ出来た。
そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは足ぶみをしない事になってしまったのである。
<今昔物語集>
「羅城門登上層見死人盗人語第十八」をもとにされているといわれる
<羅城門>
朱雀大路にあった平安京の正門のこと
人間の「生」を意識して、「羅生門」にしたといわれる
<映画「羅生門」>
監督:黒澤明
1951年 ベネチア国際映画祭金獅子賞(グランプリ)・アカデミー賞特別賞(最優秀外国映画)