円山応挙(まるやまおうきょ)は、京都で狩野派の石田幽汀に師事し、写生を重視した親しみやすい画風が特色の絵師
丹波国桑田郡穴太村(現在の亀岡市曽我部町穴太)の農家の出身で、ゆかりの史跡も多く残っている
京都の町民層を中心に好まれ、門下に多数の画家が集まり円山派の祖・写生派の祖とされる
光格天皇が、円山応挙の絵を愛寵したといわれる
<雪松図屏風(国宝)>
左右隻に描かれた松が、それぞれ前後の立体感をもって描かれ、三次元的な空間が構築されている
画面中央部分に余白が広がり、奥行きのある空間の広がりを感じさせている
三井記念美術館の所蔵
1786年(皇紀2446)天明6年
54歳頃の制作といわれる
<波濤図(はとうず)(重要文化財)>
1788年(皇紀2448)天明8年
生まれ故郷の金剛寺本堂の32面の襖に描かれている
<金剛寺障壁画(重要文化財)>
1788年(皇紀2448)天明8年
金剛寺が、東京国立博物館に寄託
<松に孔雀図襖絵(重要文化財)>
1795年(皇紀2455)寛政7年の作
兵庫県北部の大乗寺(だいじょうじ)において、応挙一門の総力をあげて描かれた障壁画の一つ
仏間に正対する「孔雀の間」の襖全16面
金地に墨で描かれ彩色は施されていないが、松葉や孔雀の羽の色合いが浮かぶ
<七難七福図巻(重要文化財)>
1768年(皇紀2428)明和5年の作
承天閣美術館が所蔵
<孔雀牡丹図(重要文化財)>
1771年(皇紀2431)明和8年の作
承天閣美術館が所蔵
<雲龍図屏風(重要文化財)>
写生派の祖といわれる円山応挙が、本物の龍を見たかのように描きあげた雲龍図
画面いっぱいに渦巻く雲が描かれ、すさまじい勢いの2頭の龍が描かれている
鱗などには金泥が使われ、滲みやぼかしなどの技法で雲の湿った重たさなどが表現されている
1773年(皇紀2433)安永2年の作
<藤花図屏風(重要文化財)>
1776年(皇紀2436)安永5年の作
<雨竹風竹図屏風(うちくふうちくずびょうぶ)(重要文化財)>
圓光寺(えんこうじ)の所蔵の紙本墨画 屏風六曲一双
円山応挙の水墨画の最高傑作の一つ
右隻には雨に打たれる竹、左隻には風に静かにゆれる竹の情景が描かれている
一粒の雨も、一筋の風も描かれず、雨に打たれてしなる様子と風に舞う様子の違いを描き分けている
竹の根元の位置をずらすことや、墨の濃淡の差をつけることで遠近感を出し奥行きを出している
1776年(皇紀2436)安永5年の作
<金刀比羅宮障壁画(重要文化財)>
1787年(皇紀2447)天明7年および1794年(皇紀2454)寛政6年
<保津川図屏風(重要文化財)>
1795年(皇紀2455)寛政7年の作
<花鳥写生図巻(重要文化財)>
動物・昆虫・植物などが、さまざまな角度から客観的に描写されている
<雪梅図襖絵(重要文化財)>
和歌山の草堂寺(そうどうじ)
1785年(皇紀2445)天明5年
草堂寺第五世 棠陰(とういん)が、上京したときに、草堂寺本堂が完成したときに障壁画を描く約束をされ、
円山応挙は多忙のために南紀へ赴けず、作品のみが送られたもの
構図は、翌年に描かれた「雪松図屏風」(国宝)の先駆けとなっている
<月鉾の屋根裏絵画>
金地彩色草木図(きんじちゃくさいそうかず)
月鉾の天井裏に夏の草木が描かれている
1784年(皇紀2444)天明4年の作
<保昌山>
前懸や胴懸の刺繍の原画
<山水図屏風>
左隻は遠くに流れ落ちた瀧が急流となって岩場を手前に進み、
右隻では手前の松林からゆるやかにカーブする湖畔が広々と奥へ続くように描かれている
中心には、霞のかかった湖面という、何も描かれない広い空間が作られている
1773年(皇紀2433)安永2年の作
三井記念美術館の所蔵
<松鶴図屏風(しょうかくずびょうぶ)>
タンチョウヅル5羽とマナヅル3羽が重なり合うように描かれている
右隻の松の大木はしっかりと地面に根を下ろし、左隻では垂れ下がった枝先のみが描かれている
1770年(皇紀2430)明和7年の作
近江の寺院の襖絵であったものが、屏風の形式に改装されたといわれる
<淀川両岸図巻(よどがわりょうがんずかん)>
巻頭の伏見から巻末の京橋・大阪城にいたる淀川の両岸の光景を描いた画巻
上部が淀川右岸、下部に左岸が描かれている
川の中央から両岸を見て描いており、右岸は風景や建物が上向きに、左岸では下向きに描かれている
<眼鏡絵 三十三間堂通し矢>
三十三間堂で催される通し矢の的が、遙か遠くに小さく描かれている
<幽霊画>
大統院
もと千本出水の玉蔵院にあった出水の七不思議の一つとされる幽霊画
円山応挙は、「足のない幽霊」を描き始めた画家ともいわれる
<幽霊画>
三時知恩寺
<東本願寺>
茶室「桜下亭(おうかてい)」
座敷に岐阜別院書院から移された障壁画30面がある
松之間に紙本金地墨画「稚松図」16面
竹之間に紙本金地墨画「竹雀図」4面、紙本墨画「竹図」4面・床脇壁裏側1面
梅之間に紙本墨画「白梅図」4面・壁貼付1面がある
<応挙>
「応挙」とは、「中国 宋の画家 銭舜挙に応ずる」という意味がある
中国の大家に劣らぬ絵を描こうとする意思が込められているといわれる
<写生画>
写生派の祖といわれる
写生を重視し、西欧の透視遠近法・陰影法・大小遠近法・鮮明度差遠近法・明度差遠近法などの手法を学び、
巧みに取り入れた独自の新しい画風としての写生画を完成させた
卓越した画技と平明で親しみやすいものとなる
渡辺始興に影響を受けたといわれ、渡辺始興の写生画「鳥類真写図巻」を模写している
<大画面作品>
63才で亡くなるまで、精力的に大画面作品を描き続けた
代表作としては、亀岡 金剛寺、和歌山 草堂寺、兵庫 大乗寺などの寺院の障壁画(しょうへきが)や
屏風では、「雲龍図屏風」「雨竹風竹図屏風」「藤花図屏風」「雪松図屏風」などがある
<円山筆>
円山応挙が考案したといわれる「付立筆(つけたてふで)」
穂先が長く弾力のある毛を芯にしたもので、作者の意図通りの、細く息の長い線を描けるといわれる
<眼鏡絵>
遠近法によって描かれた風景画
オランダ銅板画の画法によるもので、凸レンズの覗機械(のぞきからくり)を通して見ると立体的に見える
円山応挙が二十歳前後の頃、京都の玩具商 尾張屋で眼鏡絵を描き、西洋の写実的な透視遠近法・陰影法を習得したといわれる
<幽霊画>
足のない幽霊は、円山応挙が、最初に描いたとされる
障子越しに病弱であった妻の影姿を見て描いたといわれる
「四方睨み」を活かして、どこから見ても目が合う画法で恐怖感を高めたといわれる
<円山派>
門人1000人といわれ、当時の京都画壇を呉春の四条派と二分する流派をなした
<四条派>
円山応挙を慕った呉春が創始した流派
呉春が、京都四条上ルに住んでいたことから名付けられる
円山派にくらべ酒落気があるといわれる
<平民芸術>
アメリカに日本美術・日本文化を紹介した東大教授 ア−ネスト・フェノロサは、
「狩野派・淋派は、貴族的支配階層のもの、円山派・四条派は、平民芸術」として紹介している
<生誕の地>
地図情報
亀岡市曽我部町穴太
穴太寺の東の空き地に、石碑が立っている
小幡神社が、円山応挙(上田家)の産土神社とされる
<金剛寺>
亀岡市曽我部町穴太
幼少時代に小僧として過ごした寺院
<円山応挙宅址>
<悟真寺>
右京区太秦東蜂岡町
円山応挙のお墓がある